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小説「霧の淵、朝日館の灯」第4章: 過去と現在
翌朝、亮介は「朝日館」の庭に立っていた。
昨夜、霧の淵で聞いた声と見た人影が頭から離れない。
冷たい風と霧の中に浮かんだ母のような影。それは現実だったのか、それとも幻だったのか。
「母さん……」
呟いたその声は、澄んだ朝の空気に溶けて消えた。
朝食の席で、亮介は美智子と再び顔を合わせた。
彼女は窓際に座り、スケッチブックを手にしている。
「おはようございます。昨夜、霧の淵に行かれたんですか?」
美智子が微笑みながら尋ねる。
「ええ、でも……奇妙な体験をしました。声が聞こえたり、人影を見たり……」
亮介の言葉に、美智子はスケッチブックを閉じ、真剣な表情になった。
「それは……霧の淵があなたに何かを見せたんですね。私も初めて霧の淵を訪れたとき、昔の記憶が鮮明に蘇りました」
「昔の記憶?」
「ええ。家族を失った頃のことです。あの場所は、人の心の中を映し出すような力を持っている気がします」
美智子の言葉に、亮介は昨夜の出来事がただの錯覚ではないと確信し始めていた。
その日、亮介は雄一に誘われて村の広場を訪れた。村人たちが集まり、灯籠を並べたり、笛や太鼓の音を確認したりしている。
「何をしているんですか?」
亮介が尋ねると、雄一は満面の笑みを浮かべた。
「霧祭りの準備ですよ。毎年秋になると、霧の淵に感謝の祈りを捧げるんです」
霧祭り。それは村にとって、自然と人々を繋ぐ大切な行事だった。
「どんなことをするんですか?」
「夜になると、みんなで灯籠を持って霧の淵に向かいます。そこで祈りを捧げるんです。自然への感謝と、この村の平穏を願って」
雄一の言葉を聞きながら、亮介は祭りに興味を抱いた。
そして、その行事が霧の淵の力を理解する手がかりになるのではないかと感じた。
夕方、亮介は村の神社を訪れた。そこで目にしたのは、「南朝の祠」と呼ばれる小さな社だった。
「ここは、後醍醐天皇の兵士たちが最後の祈りを捧げた場所だと言われています」
雄一が説明しながら、祠の隣に立つ石碑を指差した。
「己を見つめ、己を知る者は道を開く」
その言葉が、亮介の胸に深く響いた。
「この言葉……霧の淵とも関係があるんですか?」
「ええ。修験者たちが霧の淵を修行の場として利用していた頃から伝わる言葉だと言われています」
雄一の説明に、亮介は霧の淵が単なる自然現象ではないことを再認識した。
その場所は、人の心の中に眠る何かを引き出す特別な力を持っているのだ。
夜になると、霧祭りが始まった。
村人たちが灯籠を手に持ち、山道をゆっくりと進んでいく。
その光景は幻想的で、どこか神聖さを感じさせた。
亮介もその列に加わり、霧の淵へと足を運んだ。
谷の縁に立つと、村人たちは一斉に灯籠を地面に置き、霧の中に向かって祈りを捧げ始めた。
「この霧が、村を守ってくれているんです」
静香がそっと話しかけてきた。
「霧の淵は、ただの谷ではありません。この村の人々にとって、心の支えであり、自然への感謝を込める場所なのです」
その言葉に、亮介は心を打たれた。この村の人々は、霧の淵を恐れるのではなく、敬意を持って受け入れているのだ。
祭りが終わり、旅館に戻った亮介は、静香に改めて尋ねた。
「霧の淵って、一体どういう場所なんでしょう?」
静香は少し考え込み、静かに語り始めた。
「昔、この村は南北朝時代の戦乱に巻き込まれ、霧の淵は兵士たちの隠れ里として使われたと言われています。彼らは霧の中で祈りを捧げ、自分の行いを省みたそうです」
「自分の行いを……」
亮介はその言葉に思わず息を呑んだ。それは、昨夜霧の淵で感じたことに繋がっているようだった。
その夜、亮介は布団に横たわりながら、霧の淵での体験を思い返していた。
心の奥底にある何かを突きつけられるような感覚。
そして、それが自分にとって避けて通れないものだということを感じていた。
「もう一度、行くべきなのかもしれない」
亮介はそう呟きながら、目を閉じた。霧の淵が自分に問いかけているように思えた。
続く