02 南北朝解体から自天皇暗殺まで
1、後南朝とは
後南朝とは、歴史書や教科書には出て来ない言葉である。近年に作られた言葉である。
尚、後南朝という言葉は当時の史料には登場しない言葉で、後世の歴史家が作った歴史用語である。
江戸時代後期の伊勢の漢学者・斎藤拙堂が草した「後南朝遺蹟碑記」の中で「南朝の事、あに言を忍ばんや。前南朝なほ然り。いわんや後南朝の式微をや。後南朝とは何。後亀山帝の後を謂ふなり」とあり、後南朝という言葉が初めて使われたとされている。
2、南北朝解体
1336年に後醍醐天皇が吉野に御座を移されてから約60年。元中九(1392)年、
足利義満の呼びかけに応えて後亀山天皇が京都に遷幸され、南北朝の歴史もようやく幕を下ろしたと思われました。
しかし「皇位は両朝交互に与えられる」という約束も守られず、南北朝の合体は実質的には南朝の消滅となりました。
3、実仁親王崩御
後亀山天皇の皇子、実仁親王は、幕府に抗議し戦いますが、川上村に潜幸され、嘉吉三(1443)年に崩御されます。
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