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清水寺恋詩 -四季が紡ぐふたりの物語-第1章:春 - 出会いと衝突


春 - 桜舞う清水寺

薄紅色の花びらが、清水寺の境内を舞っていた。涼は足場の上から、その光景を見下ろしている。ライトブルーのシャツに薄手のジャケット。作業用のヘルメットが、春の日差しを反射していた。

「おはようございます、蓮見さん。今日は足場の安全確認ですか?」

声の主は、涼の同僚となった大工の山本さんだ。六十がらみの職人は、昔ながらの着物姿で現場に立っていた。

「はい。特に桜の枝が近い場所は、人が集中しますから」

「さすが、観光客の動線まで考えていますね」

山本さんが感心したように頷く。涼が京都に来てから一ヶ月。少しずつだが、現場での信頼を築き始めていた。

「ところで、橘先生が探していましたよ。なにやら図面の件で」

「あ、はい。すぐに参ります」

涼は慌ただしく足場を降り始めた。彩乃との最初の衝突から、涼は伝統工法の研究に没頭した。しかし、まだ納得のいく提案には至っていない。

仮設された現場事務所では、彩乃が古い図面と新しい図面を見比べていた。モノトーンのスーツ姿は変わらないが、春の訪れを感じさせる淡いピンクのスカーフを首元に添えている。

「蓮見さん、この補強材の配置について」

彩乃は机に広げられた図面の一点を指さした。涼は緊張した面持ちで覗き込む。

「従来の工法を活かしながら、最小限の補強を...」

「でも、この部分の強度は十分なのでしょうか」

彩乃の声には、いつもの厳しさが感じられた。涼は口ごもりながらも、必死に説明を続ける。

「はい。古い図面を研究したところ、この部分には伝統的な技法で」

話している最中、外から歓声が上がった。風に乗って、一際大きな桜の花びらの群れが舞い降りてきたのだ。

「ちょっと、外を」

彩乃が立ち上がり、涼も後に続いた。二人が外に出ると、観光客たちが携帯電話を構えて、桜吹雪を撮影している。本堂の周りには、まるでピンクの霧がかかったかのように花びらが漂っていた。

「この景色も、修復工事が終わるまで見られないかもしれませんね」

彩乃の言葉に、涼は驚いて振り返る。いつもの厳格な表情の中に、どこか物憂げな色が混じっているように見えた。

「橘さんにとって、この風景は特別なんですか?」

「ええ。子供の頃から、毎年見てきました。桜の季節になると、祖母と一緒にお参りに来るのが恒例だったんです」

風が再び吹き、桜の花びらが二人の周りを舞う。涼は彩乃の横顔を見つめながら、この土地に根付いた思い出の重みを感じていた。

「だからこそ」

彩乃が涼の方を向く。その眼差しには、先ほどまでの物憂げな色は消えていた。

「この修復は、絶対に妥協したくないんです。未来の人たちにも、同じ景色を見てもらいたい」

涼は黙って頷いた。彩乃の言葉に反論する余地はない。それどころか、その想いに深く共感している自分に気づいていた。

「もう一度、図面を見直します。伝統工法の利点を最大限に活かしながら、必要最小限の補強を考え直してみます」

「お願いします。で、できれば明日の午前中には」

厳しい締め切りに涼は内心たじろぎながらも、真摯に受け止めた。桜の花びらが二人の間を通り過ぎ、清水の舞台へと流れていく。

「あの、橘さん」

事務所に戻ろうとした彩乃を、涼は呼び止めた。

「今度、古い工法について、もう少し詳しく教えていただけないでしょうか」

彩乃は少し考え込むような素振りを見せた後、小さく頷いた。

「分かりました。資料館で、触れることのできない古い図面もお見せしましょう」

その返事に、涼は思わず顔を綻ばせた。桜が舞う清水寺の境内で、二人の間にある小さな壁が、少しずつ溶けていくような予感があった。

それぞれの想い

夕暮れ時の資料館は、誰もいない静けさに包まれていた。涼は古びた資料と向き合い、メモを取る手を止めることなく動かしている。机の上には、江戸時代から続く修復記録の束が積み重ねられていた。

「まだ残っていたんですね」

彩乃が資料館に姿を現したのは、日が傾きかけた頃だった。手には段ボール箱を抱えている。

「橘さん、今日はもう終わりではないんですか?」

「ええ、でも気になる資料が見つかったので」

彩乃は箱を机の上に置き、中から古い写真を取り出した。昭和初期に撮影された清水寺の姿だ。涼は思わず身を乗り出す。

「これは、大正から昭和にかけての修復工事の記録です」

「当時の足場の組み方が、現代とは全然違いますね」

二人は写真を見つめながら、自然と会話を交わしていく。いつもの緊張感は、薄暮の中でゆっくりと溶けていった。

「蓮見さんは、どうして建築技師になろうと思ったんですか?」

突然の問いに、涼は少し戸惑いながらも答えた。

「実は、祖父の影響が大きいんです。大工だった祖父が、いつも木材の話をしてくれて...」

涼の言葉に、彩乃は興味深そうに耳を傾けた。

「木には、それぞれ個性があるって。同じ木でも、育った場所や環境で、強度も、しなやかさも違うんだって」

「なるほど」

「でも、僕は最新の建築技術に憧れて、伝統的な建築からは遠ざかってしまった。清水寺の修復に関わることになって、やっと祖父の言葉の意味が分かってきた気がします」

夕日が資料館の窓を染めていく。彩乃は古い写真を、そっと箱に戻した。

「私も、似たような経験があります」

彩乃の声は、いつもより柔らかかった。

「私の場合は母の影響です。母は茶道の先生で、伝統文化の大切さを教えてくれました。でも、最初は反発していたんです」

「反発、ですか?」

「ええ。古いものを守るだけでなく、新しい価値を見出したいと思って。だから美術史を学び、文化財保護の道に進みました」

涼は黙って彩乃の言葉を聞いていた。窓の外では、参拝客の帰る足音が、かすかに聞こえてくる。

「結局、気づいたんです。伝統を守ることは、ただ古いものを残すことじゃない。その価値を理解し、次の世代に伝えていくこと。それは、とても創造的な営みなんだって」

彩乃の言葉に、涼は深く頷いた。二人の想いは、違うようで、どこかで繋がっている。

「橘さん、この写真をもとに、足場の組み方を考え直してみてもいいでしょうか」

「ええ、もちろんです。でも」

彩乃は微笑みながら、厳しい視線を向けた。

「期限は変えませんよ」

「...分かっています」

涼は苦笑いを浮かべながら、再び資料に向かった。夕暮れの資料館で、二人はそれぞれの想いを胸に、黙々と作業を続けた。

外では、春の風が桜の枝を揺らし、古い木材の香りが漂っていた。清水寺は、今日も静かに、二人の成長を見守っているようだった。

すれ違う二人

春雨が清水寺の境内を潤していた。現場事務所の中で、涼は新しく作り直した図面を前に、困惑の表情を浮かべている。

「この案では、まだ足りません」

彩乃の声は静かでありながら、強い意志を感じさせた。昭和の写真を参考に考案した足場の組み方も、結局は彩乃の求める基準には届かなかった。

「でも、伝統工法を活かしながら、現代の安全基準もクリアしているはずです」

涼の声が少し強くなる。徹夜で仕上げた案への自信と、疲れが混ざっていた。

「安全性は確保できているでしょう。でも」

彩乃は窓の外を見やる。雨に濡れた木々が、重々しく枝を垂れている。

「この清水寺の本質的な価値を、十分に理解されていない」

「本質的な価値、ですか?」

「そう。材料の選び方、組み方、工具の使い方。一つ一つに意味があるんです」

彩乃の言葉に、涼は反論しようとして口を開いた。しかし、その時、現場から慌ただしい声が聞こえてきた。

「先生方!大変です!」

山本さんが雨合羽を着たまま、事務所に飛び込んできた。

「雨漏りが...本堂の北東の角で」

二人は即座に立ち上がり、傘も差さずに現場へと向かった。春雨は次第に強さを増していた。

本堂の軒下で、職人たちが慌ただしく動いている。急いで養生シートを広げ、雨漏りの箇所を特定しようとしていた。

「この部分の腐食が予想以上に...」

山本さんの説明に、涼は眉をひそめた。彼の提案した補強案では、この部分の工事を後回しにするつもりだった。

「すぐに応急処置を」

涼が指示を出そうとした時、彩乃が一歩前に出た。

「待ってください。この雨で分かったことがあります」

彩乃は傘を持たないまま、雨に打たれながら軒下の構造を見上げていた。

「江戸時代の図面に、この部分についての詳しい記述があったはず。山本さん、裏の倉庫に」

「はい、分かりました」

職人たちが動き出す中、涼は彩乃の横顔を見つめていた。その眼差しには、ただの管理者としてではない、建築に対する深い愛情が宿っていた。

「橘さん」

「なんですか?」

「僕の提案は、確かに不十分でした」

雨の音が二人の間に響く。涼は初めて、自分の理解の浅さを素直に認めることができた。

「いいえ」

彩乃は小さく首を振った。

「蓮見さんの案には、新しい視点がありました。私も、そこは認めています」

意外な言葉に、涼は驚いて彩乃を見た。

「現代の技術を否定しているわけではありません。大切なのは、伝統と革新のバランス。その着眼点は、決して間違っていなかった」

雨は次第に小降りになっていった。職人たちが古い図面を手に戻ってくる中、涼は深く息を吐いた。

「橘さん、もう一度、一から考え直させてください」

「ええ。今度は、もっと深く、歴史を見つめてみましょう」

二人の視線が交差する。春雨の中で、互いの立場の違いを認めながらも、同じ目標に向かって歩み始められることを、二人は感じていた。

本堂の屋根から落ちる雨滴が、古い木材の上で音を奏でている。それは清水寺が紡いできた長い歴史の音色のように、静かに響いていた。 
・・続く


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