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清水寺恋詩 -四季が紡ぐふたりの物語-第3章:夏 - 距離が縮まる二人とライブの計画1


紅葉の便り

清水寺の境内を、秋風が渡っていく。涼は足場の上から、少しずつ色づき始めた木々を見つめていた。ダークグリーンのシャツに薄手のカーディガンを羽織り、首元で風が心地よい。

「蓮見さん、本社からの電話です」

現場事務所から、若い職人が声をかけてきた。涼は慌てて足場を降り、事務所へと向かう。紅葉の始まりを告げる木々の間を、緊張した面持ちで歩いていく。

「はい、蓮見です」

受話器を取ると、上司の佐久間晴人の声が聞こえてきた。

「よう、涼。そっちの紅葉はもう始まったか?」

「はい、少しずつ」

「そうか。あのな...」

晴人の声が、珍しく真剣な調子を帯びる。

「東京本社で、大規模な海外プロジェクトが動き出すんだ。そのチームのリーダーとして、君を推薦しようと思ってる」

涼の手が、わずかに震えた。

「海外...ですか」

「ああ。シンガポールの伝統建築と現代建築を融合させるプロジェクトでな。今、清水寺で学んでる経験が、必ず活きるはずだ」

窓の外では、観光客たちが紅葉の始まりに歓声を上げている。涼の頭の中は、様々な思いが駆け巡っていた。

「考えておきます」

「ああ。でも、来週には返事が欲しい」

電話を切った後、涼は深いため息をついた。事務所の外に出ると、秋の空が妙に青く感じられた。

「蓮見さん?」

振り返ると、彩乃が立っていた。薄手のコートに、深いボルドーのストールを巻いている。

「あ、橘さん」

「顔色が悪いですけど、大丈夫ですか?」

「はい、ちょっと」

言葉を濁す涼に、彩乃は心配そうな眼差しを向けた。夏のライブ以来、二人の距離は確実に縮まっていた。それなのに、今この状況を説明する言葉が見つからない。

「あの、本堂の漆喰の件で相談があるんですが」

「はい、もちろん」

二人は本堂へと向かう。参道には落ち葉が舞い、木々の間から漏れる光が斑模様を描いていた。

「この部分の補修には、伝統的な漆喰の配合が必要になります」

彩乃が図面を指さしながら説明する。その横顔を見つめながら、涼は胸の内で葛藤していた。このプロジェクトの完成まで、あと数ヶ月。その途中で東京に戻ることなど、考えたくもなかった。

「蓮見さん?」

「あ、すみません。漆喰の件ですよね」

慌てて図面に目を向けるが、頭の中は依然として混乱したままだ。彩乃との距離、清水寺への思い、そしてキャリアの選択。すべてが複雑に絡み合って、涼の心を揺さぶっていた。

「私にも、話してくれても」

彩乃の声が、優しく響いた。

「いえ、まだ...整理できていなくて」

風が吹き、彩乃のストールが揺れる。紅葉の始まりを告げる景色の中で、涼は決断を迫られていた。シンガポールか、京都か。未知の可能性か、目の前の大切なものか。

本堂の軒を渡る風が、まるで涼の心のように落ち着かない音を立てていた。

それぞれの葛藤

「お姉ちゃん、また同じお茶を三杯も頼むの?」

妹の紗枝に指摘され、彩乃は我に返った。清水坂の途中にある紗枝の勤めるカフェで、彩乃は考え事にふけっていた。店内には午後の穏やかな日差しが差し込み、観光客の話し声が心地よいBGMのように響いている。

「ごめんなさい。考え事してて」

「涼さんのこと?」

紗枝の的確な一言に、彩乃は思わず目を伏せた。白いカップの中で、お茶の渦が静かにゆらめいている。

「最近、様子が変わったでしょう?何かあったの?」

「...海外のプロジェクトの話があるみたい」

紗枝は黙ってカウンターに腰を下ろした。着ているエプロンの紐を少し直しながら、姉の表情を覗き込む。

「それで、お姉ちゃんはどう思ってるの?」

「私が何を思うかは、関係ない話だと思う」

彩乃の声は、いつもの凛とした調子を取り戻そうとしていた。しかし、その声の奥に隠された感情を、紗枝は見逃さなかった。

「また、あの時みたいに」

「紗枝」

彩乃の声が強くなる。五年前の出来事。同じように文化財保護の仕事に携わっていた恋人が、突然海外へ移住してしまった時のことだ。

「でも、涼さんは違うと思う。お姉ちゃんのこと、ちゃんと見てくれてる」

「それは...」

カフェの窓の外では、紅葉した木々が風に揺れていた。彩乃は遠い目をして、その景色を眺めている。

「私には分からないの。この気持ちをどう扱えばいいのか」

紗枝はそっと姉の手に触れた。

「分からないなら、感じればいいじゃない」

「え?」

「お姉ちゃんはいつも、すべてを理解しようとしすぎるの。でも、心って、そういうものじゃないでしょう?」

店の入り口で風鈴が鳴る。秋風が運んできた音色に、彩乃は思い出した。夏のライブの夜、涼との距離がほんの少しだけ縮まった瞬間のことを。

「あのね、お姉ちゃん」

紗枝が真剣な表情で続けた。

「文化財を守るのは、ただ古いものを残すことじゃないって、いつも言ってるでしょう?」

「ええ」

「心も同じだと思うの。傷つくことを恐れて閉ざすんじゃなくて、新しい可能性に開いていくこと。それも、大切な"保存"の形なんじゃないかな」

彩乃は妹の言葉に、言葉を失った。カウンターの上に置かれた古い箱書きの茶碗が、夕暮れの光を優しく反射している。

その時、携帯電話が鳴った。画面には涼からのメッセージが表示されていた。

『明日、少しお時間をいただけないでしょうか。大切なお話があります』

彩乃は深く息を吸い込んだ。

「お姉ちゃん、もう分かってるんでしょう?」

紗枝の声に、彩乃はゆっくりと顔を上げた。窓の外では、夕暮れに染まった紅葉が、静かに光を放っていた。

「ありがとう、紗枝」

立ち上がる彩乃の背中に、紗枝は小さな微笑みを向けた。姉の歩みが、いつもより少し軽やかに見えた。

心の距離

清水寺の参道には、観光客の姿も少なくなり始めていた。涼は本堂の縁側に座り、夕暮れの空を見上げている。手元の携帯電話には、晴人からのメッセージが表示されていた。

『決断は出たのか?締切りは明日だぞ』

返信の言葉が見つからない。その時、背後から声が聞こえた。

「やっぱりここにいた」

振り返ると、晴人が立っていた。紺のスーツ姿で、少し疲れた様子が窺える。

「晴人さん!どうして京都に」

「この案件、重要だからな。直接話を聞きたくてな」

晴人は涼の隣に腰を下ろした。夕暮れの境内に、二人の影が長く伸びている。

「最近、現場からの評価がさらに上がってるぞ。伝統工法と現代技術の融合、うまくやってるみたいじゃないか」

「はい、橘さんのおかげで」

涼が彩乃の名前を口にした瞬間、晴人は意味ありげな表情を浮かべた。

「ふむ。それで、どうするんだ?」

「シンガポールのプロジェクトのことですか?」

「いや、橘さんとの件だ」

思いがけない言葉に、涼は絶句した。晴人は静かに続ける。

「海外プロジェクトは確かに魅力的だ。でも、君が本当に悩んでるのは別のことだろう?」

涼は答えられない。その時、境内に懐かしい歌声が響いてきた。

♪重なる時を 越えていこう
 この場所で出会う 奇跡のように♪

「真央?」

階段を上がってくると、ギターを抱えた真央の姿があった。

「えへへ、晴人さんから連絡もらって、急いで来ちゃった」

「待て、二人して何を」

「りょうの優柔不断な性格は大学時代から変わってないからね」

真央はギターを背負ったまま、涼の前に立った。

「ねぇ、あの夏のライブの夜。覚えてる?」

「ああ」

「二人の距離が、ほんの少しだけ縮まった夜」

風が吹き、紅葉した木々が静かにざわめく。

「でも、その後何もできなかった。僕は...」

「怖かったんでしょ?」

真央の声は優しかった。

「でも、ここで立ち止まっちゃだめだよ。せっかく橘さんも、心を開こうとしてるのに」

「え?」

「彩乃ちゃんのお妹さんから聞いたんだ。彼女も必死に自分と向き合ってるって」

涼は息を呑んだ。彩乃も同じように悩んでいる。その事実が、胸に温かいものを灯した。

「このプロジェクト。君がいなくなったら、誰が責任を持つんだ?」

晴人が厳しい声で問う。

「橘さんとの約束は?清水寺との約束は?」

「約束...」

そうだ。この清水寺で、彩乃と共に見つけた道。伝統を守りながら、新しい価値を創造していく。その途中で、逃げ出すわけにはいかない。

「俺からも言っておくが」

晴人が立ち上がる。

「海外プロジェクトは、これが最後の機会じゃない。でも、目の前にいる人との出会いは、一期一会かもしれないんだぞ」

夕暮れが深まり、境内に提灯の明かりが灯り始めた。涼は静かに頷いた。

「ありがとうございます。もう、迷わない」

携帯電話を取り出し、彩乃に送信する。

『明日、清水の舞台で待っています』

送信ボタンを押した瞬間、風が境内を吹き抜けた。紅葉した葉が舞い、提灯の明かりが揺れる。

真央は微笑みながら、ギターの弦を軽く掻き鳴らした。優しい音色が、秋の宵闇に溶けていく。
・・・続く


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