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赤白の軌跡 禁断のCBX-三ない時代を駆けぬけた青春の記録- バイク小説 第一章『秘密の始まり』
第一章『秘密の始まり』
「冷間時0.10ミリ。この僅かな数値が、高回転域での安定したパフォーマンスを生むんだ」 瀬川さんの言葉に、僕は深く頷いた。
数日後、工房でのエンジン組み立てが完了していた。
「プラグコードの接続を確認していけ」 瀬川さんの声に頷く。
1番シリンダーから順に、点火順序を確認しながら接続していく。1-2-4-3。この順番が、CBXの心臓の鼓動を作り出す。プラグの冷たい感触が、緊張を高める。
「スターターを回してみろ」 深く息を吸い、ボタンを押す。
キュルキュルという始動音の後、エンジンが目を覚ました。 ドドドド... NC07E型エンジン特有の重低音が工房に響き渡る。 アイドリング1,000回転。48馬力、11,000回転まで吹け上がるこの心臓の、最初の鼓動。
その音が工房に響いた瞬間、校内放送で流れる自分の声が頭をよぎった。 「バイク通学は厳禁です。発見次第、厳重処分とします」
「この音を聴け」 瀬川さんの声が、その葛藤を打ち消すように響く。 「完璧な燃焼音だ。お前の調整が正確だった証拠だ」
それからの日々は、夢のような時間だった。 放課後、生徒会の仕事を終えると、こっそりと工房に通う。 オイル交換、バルブクリアランスの調整、キャブレターの同調。 一つひとつの作業を通じて、バイクという生き物の声に耳を傾けていった。
「城山、そろそろ実際に走らせてみるか?」 予想外の言葉に、背筋が凍る。
「でも、免許も...」 その言葉には、三ない運動推進委員長としての重みが込められていた。
「心配するな。ここは私有地だ」 瀬川さんは工房の裏手へと案内してくれた。 広大な空き地には、パイロンが設置され、簡易的なコースが作られていた。
「まずは、マシンとの対話から始めよう」
ヘルメットを被る手が微かに震えた。生徒会長の腕章が、制服のポケットの中で重みを増す。朝の校門指導での自分の言葉が蘇る。 「バイクは危険です。絶対に関わらないでください」
エンジンを始動させる。 重低音が体に響き、鼓動が早まる。 クラッチを繋ぎ、恐る恐るスロットルを開ける。
風を切る感覚。 エンジンの鼓動。 路面の感触。 これが、自由という名の疾走感—。
「もっとマシンの声を聴け」 瀬川さんの声が風に乗って届く。 「アクセル、ブレーキ、ハンドル。全てがお前とマシンを繋ぐ接点だ」
パイロンコースを抜けていくCBX。 7,000回転域での伸びやかな加速。 エンジンブレーキを使った減速。 ライン取り。 一つひとつの動作が、新しい世界への扉を開いていく。
その時、工房の入り口で人影が動いた。 見覚えのあるシルエット。 村上健一。
生徒指導部の一員でもある彼が、固唾を呑んで見つめていた。 「城山...まさか」
エンジンを止め、ヘルメットを脱ぐ。 言葉が見つからない。
しかし、村上の目には意外な輝きがあった。 「実は...俺も」 彼がポケットから取り出したのは、バイク整備の技術書だった。
「うちは自動車整備工場でさ。子供の頃から、エンジンには触れてきたんだ」
瀬川さんが、二人の様子を見守りながら微笑む。 「技術を愛する者同士、分かり合えるはずだ」
これで、もう後には引けない。 僕の秘密の世界は、新たな段階へと突入していく。 二つの顔を持つ生活。それは、技術への情熱と責任の狭間での綱渡りの始まりだった。
続く