
小説「霧の淵、朝日館の灯」第3章: 不気味な霧の淵
夜が更け、旅館の中は静けさに包まれていた。
窓の外を見ると、谷の方角から白い霧がゆっくりと流れ込んでいるのが見えた。
庭に立つ木々もその輪郭を失い、まるで世界が霧に飲み込まれるようだった。
「霧の淵……」
亮介は不意にその名前を口にした。
心の中には、霧の淵に向かってみたいという衝動と、不安が混じり合っていた。
「佐倉さん!」
廊下を歩いていると、雄一が声をかけてきた。
彼は懐中電灯を手に持ち、どこか興奮した表情をしている。
「せっかくですし、霧の淵に行ってみませんか?」
「今から?」
亮介は驚いたように返したが、雄一は悪戯っぽく笑った。
「夜の霧の淵は特別ですから。怖い話も多いけど、だからこそ見に行く価値がありますよ」
その言葉に、亮介の胸がざわめいた。昼間聞いた霧の淵の伝承が頭をよぎるが、好奇心が恐怖を上回った。
「わかった、行こう」
二人は旅館を出て、霧の淵へ続く山道を進んだ。
昼間とは打って変わって、夜の道は暗闇に包まれ、冷たい風が頬を刺す。
足元に落ち葉が散り、踏むたびに乾いた音が響く。
「ここが霧の淵の入り口です」
雄一が懐中電灯を谷の方向に向けると、深い霧がその光を反射してぼんやりと浮かび上がった。
霧の奥は何も見えないが、その向こうに広がる何かが亮介を引き寄せているようだった。
「ここから先は……気をつけてくださいね」
雄一の声には、これまでの明るさとは違う緊張感が混じっていた。
霧の淵の縁に立つと、冷たい風が体を包み込み、亮介は思わず震えた。
谷の底は深い霧に覆われ、何も見えない。
ただ、霧の動きがまるで生き物のように感じられた。
「……亮介……」
突然、耳元で微かな声が聞こえた。亮介は驚いて振り返ったが、後ろには雄一が立っているだけだった。
「どうしました?」
「今……何か聞こえたような気がする」
亮介の言葉に、雄一は首を傾げた。
「聞こえたって……何がですか?」
「名前を呼ばれた気がする」
その瞬間、再び風が吹き抜け、霧が渦を巻いた。
その動きに合わせるように、谷底からぼんやりと人影が浮かび上がった。
「……誰かいる……?」
亮介はその影に目を凝らした。
それは女性の姿に見えたが、次第に霧と同化するように形を失っていく。
「佐倉さん、大丈夫ですか?」
雄一の声が、遠くから聞こえるように感じた。
亮介はその場に立ち尽くし、目の前の霧の奥に吸い込まれるような感覚を覚えていた。
その夜、旅館に戻った亮介は静香にその体験を話した。
「霧の淵で……名前を呼ばれる声が聞こえました。それから、人影も」
静香は静かに頷きながら、お茶を差し出した。
「霧の淵は、心の奥深くに触れる場所です。時に、そこにいる者の記憶や想いを映し出すことがあります」
「じゃあ、僕が見たものは……?」
静香は少し間を置き、優しい口調で答えた。
「それが真実かどうかは、あなた自身が知っています。でも、霧の淵があなたに何かを伝えたがっているのは確かです」
その言葉に、亮介の胸はざわついた。
霧の淵で感じたあの奇妙な感覚が、自分に何かを問いかけているように思えた。
亮介はその夜、自室で畳に座りながら霧の淵のことを考え続けた。
あの声、あの人影――それらは幻だったのか、それとも何か意味のあるものだったのか。
「また行くべきなのか……?」
静かな夜の中、亮介はそう呟いた。
その言葉が、次の行動を決定づけるように響いた。
続く