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小説「霧の淵、朝日館の灯」第8章: 旅立ち

朝日が山の稜線を染める頃、亮介は「朝日館」の玄関で荷物を整えていた。
昨夜の焚火の温かさや、村の人々の笑顔がまだ胸に残っている。

外に出ると、朝の冷たい空気が頬を撫で、周囲の山々からはうっすらと霧が立ち上っていた。

「出発ですか?」

振り返ると、静香が旅館の入口で微笑んでいた。
和服姿の彼女は、いつものように落ち着いた表情を浮かべている。

「ええ、本当にお世話になりました。この旅館に来ていなければ、僕は何も変われなかったと思います」

亮介が深く頭を下げると、静香は柔らかく頷いた。

「霧の淵で得た気づきは、亮介さんの中にずっと残るはずです。それを大切にしてくださいね。そして、またここに戻ってきてください」

その言葉に、亮介はしっかりと答えた。

「必ず、戻ってきます。そのときは、もっと成長した自分で」

静香の微笑みが、朝の光に優しく溶け込んでいった。


村のバス停に向かう途中、雄一が待っていた。

「佐倉さん、やっぱり帰っちゃうんですね」

明るい声の中にも少しの寂しさが混じっている。

「仕事があるからね。でも、ここで過ごした時間は忘れないよ」

「次に来るときは、もっと村を案内しますよ! 霧の淵の奥の秘密の場所とかも!」

亮介はその言葉に笑いながら答えた。

「それは楽しみだな。じゃあ、またな」

雄一と固く握手を交わし、亮介はバスに乗り込んだ。エンジン音が響き、バスが村を離れていく。


窓の外には、村の風景が次第に遠ざかっていく。
山間の家々、茶畑、そして霧の淵が、淡い霞の中に溶け込むように姿を消していった。

亮介は静かに窓の外を見つめながら、心の中で呟いた。

「母さん、僕は少し変われたよ。まだ全部を乗り越えたわけじゃないけど、自分を許すことの意味が分かった気がする」

その言葉に、胸の奥で小さな希望が灯った。


数時間後、東京に戻った亮介は駅のホームに立っていた。
周囲には、人々の足早な動きや雑踏の音が広がっている。
それらは以前と変わらない光景だが、亮介の視点は少し変わっていた。

「さて、やるか」

亮介は鞄を握り直し、職場に向かう電車に乗り込んだ。その目には、迷いのない輝きが宿っていた。

続く


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