小説「霧の淵、朝日館の灯」第2章: 朝日館の住人たち
翌朝、亮介は鳥のさえずりで目を覚ました。
畳の感触、窓の外に広がる苔庭――東京では感じられなかった静けさが、少しずつ心をほぐしていく。
「久しぶりにぐっすり眠れたな」
身支度を整え、食堂へ向かうと、昨日見かけた女性が窓際の席に座っていた。
彼女はスケッチブックを開き、何かを描いている。
「あ、おはようございます」
亮介が声をかけると、彼女は顔を上げ、柔らかく微笑んだ。
「おはようございます。昨日いらっしゃった方ですね?」
「佐倉亮介です。しばらくここで過ごすつもりです」
「高瀬美智子です。私もここで絵を描いています」
美智子はスケッチブックを閉じ、自分の横にあった小さな水彩セットを示した。
「何を描いているんですか?」
亮介の問いに、美智子は外の景色を指さした。
「霧の淵です。この村の風景に惹かれてここに来ました。特に霧の淵には、言葉では表せない魅力があります」
「霧の淵……やっぱり何か特別な場所なんですね」
美智子は頷き、言葉を続けた。
「村では『心の鏡』と呼ばれているそうです。訪れた人の心の奥底を映し出す場所だと……」
「心の奥底……」
亮介は昨夜、雄一から聞いた話と重ね合わせながら、その言葉を反芻した。
朝食を終えた後、雄一が玄関先で待っていた。
「佐倉さん、今日は少し村を案内しますよ。せっかく来たんだから、霧の淵だけじゃなくて村の歴史も知ってもらいたいですし」
その明るい声に押されるように、亮介は彼の後についていった。
村の道は、古い石畳がところどころ苔むしており、昭和の趣を残している。
木造の小学校跡や土間のある商店が並び、村全体が時代に取り残されたような空気を醸し出していた。
「ここが『白矢の石碑』です」
雄一が指差した先には、苔に覆われた古びた石碑があった。
その表面にはかすれた文字が刻まれており、「源義経奉納の地」と読めた。
「義経が逃亡中にこの場所で矢を奉納したって伝説があるんです。その矢が白く光ったから『白矢』って呼ばれてるらしいですよ」
亮介はその話に耳を傾けながら、義経の足跡と霧の淵がどこかで繋がっているのではないかと感じた。
次に訪れたのは「南朝の祠」だった。小高い丘の上に佇むその祠は、村の神社の一部として祀られているという。
「ここは、後醍醐天皇の兵士たちが最後の祈りを捧げた場所だと言われています」
雄一が祠の横に立つ石碑を指し示す。
「己を見つめ、己を知る者は道を開く」
その言葉が、亮介の目に飛び込んできた。
「これ、どういう意味なんだろう?」
亮介が呟くと、雄一は少し考えた。
「修験道の教えだと思います。この村は昔から修験者が多くて、霧の淵も修行場の一つだったみたいです」
亮介はその言葉を聞きながら、霧の淵がただの自然ではないことを改めて感じた。
その夜、旅館での夕食後、亮介は静香に話しかけた。
「霧の淵って、本当に特別な場所なんですね」
静香はお茶を注ぎながら静かに頷いた。
「ええ、この村の人々にとって、霧の淵はただの谷ではありません。心を映す鏡であり、癒しの場でもあります。でも、時にその力は強すぎることもあるのです」
「強すぎる?」
静香は少し間を置き、目を細めながら答えた。
「霧の淵に入った人が、自分の心の中の真実と向き合うことになると聞きます。それが喜びをもたらす場合もあれば、重い現実としてのしかかる場合もあるのです」
亮介はその言葉を胸に刻みながら、自室へと戻った。
夜、亮介は再び中庭に立っていた。星空が広がる静寂の中で、谷の方から漂う霧が一層濃くなっているのが見えた。
「自分の心の真実……」
その言葉を呟いた瞬間、冷たい風が頬を撫で、遠くから誰かの声が聞こえたような気がした。
続く