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「バレンタインの奇跡」バレンタイン短編小説3
冬の冷気が街を包み込む2月14日。
バレンタインデーの喧騒は、古びた喫茶店「珈音」には届かないようだった。
店内に流れる静謐なジャズの音色と、コーヒーの芳醇な香りが、まるで時が止まったかのような錯覚を起こさせる。
窓際の席で、27歳の佐倉美咲は一枚の古い楽譜を眺めていた。
それは、亡き祖父の形見。かつて著名なピアニストだった祖父は、この楽譜に数々の名曲を書き記し、人々を魅了してきた。
美咲もまた、幼い頃からピアノに親しみ、音楽大学に進学するほど情熱を注いでいた。
しかし、卒業を目前に控えたある日、突如として指が動かなくなってしまったのだ。
医師からは「心因性」と診断され、あらゆる治療を試みたものの、症状は改善しないまま、時間は過ぎ去っていった。
楽譜に目を落とす美咲の瞳には、諦めと微かな後悔が滲んでいた。
ピアノを弾けない自分には、何も残されていないような気がしていた。
そんな美咲の心を癒やすかのように、カウンターの中からマスターの優しい声が聞こえてきた。
「いつものココア、お砂糖少なめですね」。温かいココアを一口飲むと、ほんの少しだけ心が安らぐのを感じた。
その時、入口のベルが鳴り、一人の男性が入ってきた。
すらりとした長身に、知的な雰囲気を漂わせるその男性は、常連客の一人、小説家の北野翔だった。
翔は美咲の隣に座り、静かにノートパソコンを開いた。彼はいつもここで執筆活動をしているのだ。
美咲は翔の存在を意識しながらも、視線を楽譜に戻した。
すると、翔が優しく声をかけてきた。
「今日はバレンタインですね。素敵な一日を」。
美咲は驚いて顔を上げると、翔は微笑みながら小さな箱を差し出した。
「これ、よかったら」。中には、手作りのチョコレートが入っていた。
「え、私に?」と戸惑う美咲に、翔は「はい。いつも素敵な音楽を聴かせてくれてありがとう」と答えた。
美咲は、翔がピアノの音色を聴いていることに気づいていなかった。
自分が弾いていないピアノの音を、一体どうやって?
翔は続けた。
「実は、君の弾くピアノの音は、僕の創作活動の大きな支えになっているんだ。力強いメロディー、繊細なタッチ、そして、曲に込められた深い情感… すべてが僕の心を揺さぶり、物語を生み出すインスピレーションを与えてくれる。君がピアノを弾かなくなってから、僕の創作活動も停滞しているんだ」。
美咲は驚きを隠せない。
自分が弾いていないピアノの音を、翔は一体どうやって聴いているというのだろうか。
翔は美咲の疑問に答えるように、静かに語り始めた。
「僕は、君の心の音を聴いているんだ。楽譜に向かう時の真剣な眼差し、指先が奏でるメロディーへの憧憬、そして、ピアノを愛する純粋な気持ち… それらが、僕には美しい音楽として聞こえてくる」。
翔の言葉に、美咲の胸は熱いもので満たされた。
そして、今まで閉ざしていた心の扉が、ゆっくりと開き始めるのを感じた。翔は続けて言った。
「僕は、君が再びピアノを弾く姿を心待ちにしている。君の音楽は、きっと多くの人々に感動と希望を与えるだろう」。
美咲は、翔からもらったチョコレートをそっと手に取った。
チョコレートの甘さと共に、翔の温かい言葉が心に染み渡る。
そして、美咲の中で、何かが大きく変わったのを感じた。
ピアノに対する諦めが消え、再び鍵盤に触れたいという強い気持ちが湧き上がってきたのだ。
その日の夜、美咲は久しぶりにピアノの前に座った。
恐る恐る鍵盤に触れると、指先は震えていた。しかし、翔の言葉を思い出し、深呼吸をしてから、ゆっくりと指を動かし始めた。
最初はぎこちなかった指の動きも、徐々に滑らかになり、やがて美しいメロディーが部屋いっぱいに響き渡った。
美咲は、涙を流しながらピアノを弾き続けた。
それは、失われた時間を取り戻すかのような、そして、新たな希望に満ちた演奏だった。
バレンタインデーの奇跡は、美咲に再び音楽の喜びを与え、未来への扉を開いたのだ。
そして、美咲と翔の物語は、新たな章へと進んでいく。
(完)