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コミュニティの中で、「孤独」と生きていく。

僕は勝手に、コミュニティに関わる人たちは少なからず「孤独」を抱えているのではないかと思っている。

……文字にしてはたと気づいたが、なんだか当たり前のことを言っているように聞こえる。

確かにコミュニティの中に所属することで、普段の生活圏とは異なる人との出会いや繋がりが得られるだろう。
そうした役割や期待が、ある種の「コミュニティ」に求められているというのは確かにその通りだ。

その文脈でいくと孤独は、解消されたり解決されたりするものである。
でも、僕が冒頭の文章で言いたかったことはちょっと違う。

僕が思い浮かべた人たちというのは、孤独を「抱えて(かかえて)いる」というより「抱いて(いだいて)いる」と言った方が正しい気がする。

僕が所属している「コミュニティのカレッジ」主催の長田さんは、こんなnoteを書かれていた。

このnoteの中で長田さんは、「自分は孤独の時間がないとストレスを感じる人間なんだ」と気づかれている。

コミュニティの界隈にいる人たちの中で、このタイプの方は多いように感じる。
社交的に見えて実は人見知りだったり、1人で過ごす時間を大切にしていたりする。

かく言う僕自身もまさにそうで、1人で本を読んだり、ラジオを聴いたり、一人旅に出かけることが好きだったり。
誰かと過ごす時間が嫌いなわけではない(むしろ好き)なのだが、同じかそれ以上に1人の時間がないといけないのだ。


なぜ、コミュニティに生きる人は「孤独を抱いている」のだろうか?

コミュニティに関わっているから「孤独」が必要なのか、それとも「孤独」を抱いているからコミュニティに関わっているのか。

人によって前後はあるだろうが、おそらくは両方だろう。


自分の場合に限って話をすると、僕にとって「孤独」は、誰かと繋がるために必要なものだ。

例えば。僕が一人旅が好きな理由の1つに、旅先で誰かと話すのが好きだからというのがある。

同行人がいると、どうしてもその人と話していることが多くなってしまう。
1人でいると地元の人にも話しかけてもらいやすかったり、旅人同士でちょっと深い話になったりすることがある。

また、旅先で素敵な景色を見たり、良い人や場所に出会ったりすると、「ああ、このことをあの人に教えてあげたいな」と思うことがたまにある。
それはその場ですぐSNSでシェアするのではなく、1人で大事に抱えて噛み締めて、その温度ごと持って帰ってその人と共有したいのだ。

またこれは蛇足かもしれないが、もっと言うと「会いたいな」と思っているだけで満足してしまうのは僕だけだろうか。

これは本を読んでいる時の方が多いのだが、ある一節やシーンに出会った時「ああ、彼はこの本好きだろうな」「彼女に教えてあげたいな」と思うことがある。
やろうと思えばすぐに「これおすすめ!」とLINEすることは出来るのだけど、そうしたい時とそうでない時がある。

ただ、1人でいるときに誰かのことが思い浮かぶというのは何だか幸せなことだなあ、と独りごちてパタリと本を閉じたりする(いやそれ単なる自己満足でしょと言われればその通りなのだけれど)。


パズルピースの凸凹のように、掌を離しているから掴めるように、「孤独」と「出会い」は表裏一体なのだと思う。目の前に誰も居ないから、あえる人がいる。

そのコインの裏表をひっくり返すスイッチが、きっと「寂しさ」だ。

1人だと寂しくて、誰かに会いたくなる。でも、誰かといるのに寂しさを感じる瞬間もある。

そんな時、会いたいのは「孤独」の向こうにいる「自分の中の自分」であり、もしくは「自分の中の誰か」なのではないだろうか。

コミュニティに生きる人というのは、そういう色んな「孤独」や「寂しさ」を大切にしている人たちなのかもしれないな、とここまで書きながら考える。



僕が2022年の11月から所属していた「コミュニティのカレッジ」。
コミュニティの実践者をゲスト講義として招いたり、メンバー同士でコミュニティに関する問いについて、さまざまな対話を繰り広げてきた。

こちらが2023年の10月をもってクローズということで、「せっかくだから振り返りのnoteとか書きたいですね」と言ったまま下書きを寝かせてしまっていたところ(ごめんなさい)、主催の長田涼さんが投稿していたのが冒頭で紹介したnoteだ。


このnoteを読んでから、僕は途中まで書いてしっくり来なかった「コミュカレに入って学んだこと」的なnoteの下書きをゴミ箱に突っ込んだ(誇張表現である。勿体無いのでそれまでに書いた下書きは何らかの形で成仏させてあげたい)。

答えの見えない問いのテーマから、誰かが独り言のように発した言葉を、それぞれが噛み締め、転がし、それにまた自らの心に浮かんだ考えや感情を重ねていく。

その対話の在り方や流れている時間は、1人ではないのに独りというか、1人ではないからこそ、独りになれたというか。言うなれば「孤独のあわい」のような、心地よい空間だった。


サービスとしては区切りを迎えるコミュカレだが、メンバーはまたそれぞれの「孤独」を抱きながら、日々を過ごしていくことだろう。

「孤独を抱いていく」ことが「コミュニティを生きる」ことなのであれば、きっとコミュカレという箱の有無に関わらず、メンバー1人1人の孤独の中でのモノローグ(独白)は、いずれまた別の誰かとのダイアローグ(対話)の一部となっていくはずだ。

そうした営みこそがまさに、コミュカレという場で起きていたことそのものだと感じたので、主催の長田さんのnoteへのアンサーという形で、僕のコミュカレの振り返りnoteと代えさせて頂きたい。

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