掛川市を外から見る者の想い ~掛川100景のかけら~ 吉岡彌生
今回私がこのプロジェクト『掛川市の魅力ある場所や物事を集め、ネット上に記事を掲載する』に参加したきっかけはランサーズの新しい働き方LABです。「研究員制度」にご興味のある方はこちらへどうぞ。
今回企画に参加したことで、リサーチだけではなく、執筆の機会を得ることができました。もちろん管理者のリライトは入っていますが、私的にはライターへの一歩を踏み出したことには変わりありません。
掛川100景を掲載しているnote、執筆に携わった 偉人 吉岡彌生 はこちらです。よければ ♡スキ やフォローお願いします。
はじめに
リサーチ、執筆は『文字制限』があり、端折りすぎてしまうと伝わらない。『文章で想いを伝える』ということがこんなにも難しいと痛感した執筆までのエピソードをまとめたものです。
そんな時に思い出すのは、2024年11月某日。夜明け前に掛川市に到着した日のこと、吉岡大塚古墳に登頂して見上げた夜空でした。
たくさんのキラキラした大小さまざまな星 🌟 とにかく空気が澄んでいてきれいだったことを覚えています。
私がリサーチしたのも間違いなくキラキラしたかけらを拾い集めたもので、執筆は多くのかけらをまとめたもの。そんな気持ちから伝えきれなかった想いを【取材後記】として残すことにしました。
1.執筆の方法、リサーチ
私の執筆方法は、ネットや書籍からの下調べから始まります。
そもそも 偉人「吉岡彌生」について何も知らない状態でのスタート。
検索はすぐヒットしました。そして情報量が多い!!
最初はなぜ割り振られたか?という思いでしたが、だんだんと『まるで私がリサーチするにふさわしい?偉人ではないか!!』と思いました。
何せ明治時代、もちろん男尊女卑が当たり前の時代。
その中で恵まれた環境にいたこともあるかもしれませんが、勉学に励むことができた女性。年頃になれば結婚、家事育児、畑仕事などをするところを『医者になりたい』とのこころざしをもって東京へ上京したこと。
日本で27人目の女医となったこと。
母校が女性の受け入れを拒否したことをうけて、1900(明治33)年東京女子医科大学の前身である東京女医学校を作った。
エピソードが壮大すぎる。
ただ 医療の発展に貢献 してきたのに、戦時中は戦争協力に指導的な役割を演じたと判断されて約4年間教職追放、公職追放されてます。罰せられるのは男女平等なのか・・・と悲しくなりました。
最期は自身の身を『医療に役立ててほしい』と遺言に残し、遺体は解剖に付されたこと。そのこころざしを家族も受け入れていたことに驚くばかりでした。
2.取材
11月上旬に訪掛(これは掛川市では普通に使われる言葉)しました。色々な施設を周りましたが【掛川市 吉岡彌生記念館】は、ダントツに魅せる施設だと感じました。
やはり医療の発展に貢献した偉人だけあるなと思いました。
入場料の200円は良心的すぎます。
もちろん医療関係者が訪れるブースあり、私のように医療をかじっていない人にもわかりやすいようにアニメDVDで視聴できるブースあり、気づいたら全てを見終わるのに1時間以上滞在してたと思います。
3.感じ取ったこと
当たり前にある『選択できる女性の生き方』は、最初に『誰かが成し遂げたから普通』になったということです。
偉人 吉岡彌生 から感じ取った
カテゴリーによってはまだ男性優位なものもありますが、企業でも女性の役員、役職は普通になっています。
ただ医療においては平等でなければおかしいと思います。それが明治時代は平等ではなかった。この事実と世論を変えた人物が、掛川市にいたことはもっと誇っていいことだと思います。
さいごに・・・
私は会社員生活が長かったですが、業種もあると思います 女性は男性のサポート という考えがずっと頭にありました。今振り返るとそれを理由にしてきたかもしれません。自分を守る枠からはみ出ないようにしてきたと思います。
【至誠一貫】彌生の好きな言葉です。
生涯を大切に生きた彌生にぴったりな言葉です。
私にもまだまだのびしろがある!!そう思わずにはいられない。
そんなことを感じ終えました。