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サクラノリの出たトコ勝負 その214(恩師)


息子が進学の為に家を出て行ったせいか。 

年度変わりで新しいスタートを切る人達の投稿を目にするせいか。 

 自分の学生時代を思い返したりしている。

 父親が教員の家庭に生まれたが、怒られることばっかりやるクソガキで、教員なんて信じてなかったし、大嫌いだった。 

 そんな自分にも恩師と想っている方が1人だけいる。 

 大学時代の柔道部の先生(監督) 

 体育会系。そのノリが好きな人も居れば嫌いな人もいるだろう。 自分は嫌いじゃない。 他を知らないので比べようがないけれど、所属していたチームは間違いなく体育会系だった。 

 一浪して入学した体育大学。受かったコースはもれなく柔道部への入部がセットだった。 約半数が推薦入学でインターハイ上位入賞者がゴロゴロ居る。 学生チャンプ、日本チャンプを輩出する男女併せて約80名の九州で1番強いチーム。 

 そんな中に身を置いてしまった。同好会みたいな柔道部しか経験ないのに... 

 自分からしたら "虎の穴" のようなところ。

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朝練習は月・火・木・金の週4回、ランニング・腕立て・懸垂・ダッシュ・手押し車などのトレーニング。この時から起きてすぐに動ける身体になり、現在の生業としている新聞店業務にとても役立っている。

 道着を着ての稽古は、月〜土の講義終わりから2時間半、立ち技と寝技がみっちりとあった。

 入部して数ヶ月は立っている時間より宙を舞っている時間の方が長かった。1番弱かったんじゃないだろうか。あまりのキツさに逃げることを忘れていたと思う。逃げるという発想まで辿りつかないくらいキツかった。ボロボロだった。とにかく必死だった。

 先生・先輩・同輩・後輩・周りの人達は、弱いからと下に見ることはなく、当たり前のように1人の人間として扱ってくれ、気にかけてくれた。おかげで少しずつ少しずつ、環境に稽古に慣れていった。 

 上下関係はあったけれど理不尽なことはなく、先生からも先輩からも、弱い下手だと怒られることは1回もなかった。

 先生には何回か怒られた。

怒られるのは、決まって生活態度がなってないという理由だった。元世界チャンピオン、鉄人の異名、当時は全日本A代表のヘッドコーチ。心優しきアニキの様な方なのだが、怖くて頭が上がらない、それでいて尊敬する先生。前にすると直立不動。「はい」しか言えない。「いいえ」が言えないくらいの存在だった。


「オマエ単位いくつ持っとるんか?」

大学3年の春、朝練をサボり、生活態度がなってないから坊主頭にして来いと言われ、頭を丸めて道場に行った。

 「坊主にしたから良いってもんじゃないぞ。」

と言われた後に聞かれた単位の数。

 "やばい(悪い意味で) ばれる"

 たまにサボったりしたが、柔道は自分なり懸命に取り組んでいた。 が、講義に関しては申し訳が立たないくらいに不真面目だった。

 口ごもりながら咄嗟に実際の取得数よりも少し多めに答えた。 それでも留年確定の数字。 大学のシステムは、3年終了までに規定の単位を取っていないと卒業研究に取りかかれないというモノ。

 実は1年終了時点で留年が確定していた。

 「ちょっと来ぉーーーい。」

 教官室に連れて行かれた。

 「横着しやがって。(九州では生意気の意味)」 「やる気がないんなら辞めちまえ。」

 "あぁ、もう練習キツいし、辞めちゃおうかなぁ"

 なんてコトを考えながら怒られていた。すると、

 「オマエみたいな奴は辞めるとロクな者にならない。オレが意地でも、絶対に辞めさせない。」 「オレには親御さんからオマエを預かった責任がある。」 「オマエだけは絶対に辞めさせない。」

 逆の話になっていた。 

 10歳くらい年上の先生は当時30歳ちょっと。自分には想像もできない程の重圧と責任を背負っていたんだと思う。

 絶対服従。「はい」しか言えない自分は、途中、靭帯断裂などの怪我もありながら、大学も柔道部も辞めることなく過ごすことが出来た。 

 留年したけど、リタイヤせずに卒業出来たことは、間違いなく今の自分の根幹となっている。


 門限があった。 

 まさか門限があるなんて夢にも想っていなかったが、20歳を過ぎて門限があった。 まぁ、そんなガチガチではなく "朝練のある前日は、寝てなくてもいいから23時までにはアパートなり寮なり各自部屋に戻っていろ" というものだった。

 稽古にも生活にも慣れてくると気持ちに若干余裕が出来てくる。夜の街に繰り出し遊んだりするようにもなった。街の大人達とも仲良くなり遊んでもらったりした。 

 でも引退するまでは門限もあれば朝練もあった。

 4年の時だったか。 1人で街に飲みに出ていた。なんで1人だったか全然覚えていないけど、とにかく1人だった。先輩の彼女さんがやってる飲み屋に顔を出し、ゴキゲンで飲んだ。

 「ねぇ、ノリさん! 飲み行こうよ。」

 アフター ということになるのでしょうか。 

 店が終わると先輩の彼女さんと妹さんの3人で遅くまでやっているお洒落なバーに行って、更に飲んだ。 何がどうなるとかは全然なく、ただただ楽しく、でも両手に花でゴキゲンで、門限のこと朝練のことなど1ミリも考えず、飲み続けていた。

 カランカラン♫ 

 扉が開いた。

 !!! な、な、なんと。 

 先生が入って来るではありませんか。どこかで飲んでいたらしい。

 顔面蒼白。頭真っ白。絶体絶命。終わった。詰んだ。

 酔いが一気に冷めた。

 時間は午前0時を超えて、門限なんかは余裕でブッチギっちゃっていた。

 簡単に生き死にを口にしたらいけないんでしょうが、生きた心地がしない。

 「ノリさ〜ん♫ ど〜したの〜?」

 彼女さんの言葉も上の空。 

"やばい(悪い意味で)  殺される" 

 簡単に殺すとか言葉にしちゃあいけないんでしょうが、それしか頭に浮かばない。

 とその時 、 「先生からで〜〜〜す!」  とマスターが大量の瓶ビールを持って来た。

 すっかり酔いも覚め "今ビールどころじゃないんですけど" と思いながらも 

「ありがとうございます。」 

 と頑張ってヘラヘラしながら先生の所へ御礼に。

 「いいから、あっち行け」という仕草。

 先生からのご好意を無駄には出来ないと、ビールを必死に飲む。 ビールに集中している間に先生は居なくなっていた。

 "ふぅ、取り敢えず生き延びた。" 

 だけど、やばい(悪い意味で)状況に変わりはなく、朝練の時間は刻一刻と近づいていた。 

"朝練行かないとマズいよなぁ。でも殺されるなぁ。行きたくねぇなぁ。" 

 めっちゃブルーになりながら寮へ帰った。 

 朝練開始。 飲み過ぎで頭が痺れっぽい中、後輩の号令で準備体操。 とてもじゃないが先生の顔は見れない。伏し目がちに体操が終わったその時、

 「ノリ〜、ちょっと来ぉい。」

 "あぁ、オレもここまでか..." 

 簡単に口にしちゃあいけない言葉なんでしょうが、死刑台にのぼる思いで先生の元へ。 

「...よく来たなぁ。来なかったら殺そうと思ってた。」

飲み過ぎで腫れた目の先生がニヤッとしながら言った。

 「行けっ!」

 お咎めなし。一発もブン殴られずに開放。

 "助かった〜。バックれなくてよかったぁ〜。"

 さっきまでの生きた心地がしない状態から一転、強烈な安堵感に包まれながら、ランニングの列に加わった。


数年後、後輩の結婚披露宴で先生の所にお酌に行った。まずはパカーンと頭を打たれ

 「なんだか知らねぇけど、お前みたいな奴の方がよく覚えてるわ。」

  と満面の笑みでおっしゃっていただいた。


先輩と飲んでいる投稿に

 「ノリ! 今度はオレと飲むぞ!」

 と世界柔道の開催地からコメントくださった。  

 めっちゃ嬉しかった。 先生の教え子であることを今も励みにしている。あの学生時代があるから、なんとか踏ん張って生きていけてる。

 いつの日か。ご挨拶にお伺いさせていただきます。

直立不動で「はい」しか言えませんが。 

お読みいただき、ありがとうございます。

音源・文章など、自分なりに更新していければと思っております。 よろしくお願い致します!!!