がらあきほうすけ



強烈な右フックが相手のテンプルを捉えた。相手の膝がガクッと落ちかける。目がうつろだ。ロープにもたれかかる。右フックを放ったボクサーは一気に間合いを詰めた。まるでお菓子を貰う為に喜びいさんでかけて行く子供の様に。がらあきのガードで。相手のボクサーはそれを見てロープの反動を利用して、右ストレートを放った。それが見事に間合いを詰めて来たボクサーの顎を捉えていた。強烈なカウンターとなった。たまらず仰向けにひっくり返った。
「今井ほうすけ、ダウン!!ダウン!!」
アナウンサーの声がリング上で響きわたった。歓声と怒声が飛び交う。
「これは立てないでしょう。今井これでプロデビュー6連敗!」
ほうすけはビデオのスイッチをオフにした。何度見ても無様な負け方だ。しかもデビュー以来全て同じパターンで負けている。
ジムのK会長が言った。
「今井、もうやめるか?」
その言葉がほうすけの脳裏にずっと焼き付いていた。

今井ほうすけは、アマチュアチャンピオンとして鳴り物入りで拳闘界入りした。将来を嘱望され、世界チャンピオンは時間の問題と折り紙付きだった。アマでの戦績は41勝無敗、40KOのハードパンチャーだ。日本におけるフェザー級で敵はいないと評判だった。アマ時代から確かにディフェンスに多少の甘さはあったが、ヘッドギアーを付けている事もあり、彼のパンチ力がそれを上回っていた。
これで6戦6敗か…。新人王など夢のまた夢か。新人王など気にもかけていなかったおれが今じゃこの有り様だ。情けない。心底そう思った。この頃では何時辞めようか、その事ばかり考えていた。K会長の屋敷に住まわせてもらい、練習に明け暮れる毎日だったが、これではお荷物以外存在感がない。
ほうすけは、いつものように5時に目を覚ますと、朝のロードワークに出かけた。10kmを1時間足らずで走り抜き、ジムに戻って来ると、K会長の娘、あかりが待っていた。
「おかえりなさい。ほうちゃん、今は厳しい状況だけど、きっと良くなるわよ。だから自分を信じて頑張ってね」
ほうすけは頷くしかなかった。あかりには何時も励まされており、心から感謝していた。Kジムに入門して初めてあかりと出会った時、この人だと決めていた。世界一強くなって彼女を迎えるんだと心に誓っていた。しかし、それも今は空しい夢となった。あかりに頑張ってと言われる度にほうすけの中につらい物が走った。

Kジムは日本フライ級のチャンピオンを擁し、拳闘界では新鋭の部類だった。小さ目のリングが中央に一つ、サンドバッグ、パンチングボールが一つづつあるだけだった。
縄跳び、パンチングボール、サンドバッグ、とメニューをこなしていき、一休みしている時に、K会長が現れた。
「ほうすけ、今日から新しいメニューを取り入れる。リングに上がれ。一階級上の山内とスパーリングをやってもらう」
ほうすけは耳を疑った。山内と言えば日本スーパーフェザー級2位の有望選手だ。年は山内の方が一つ上の24歳。普段から高圧的な態度を取る嫌な奴だった。
山内はすでに準備が出来ており、すぐにリングに上がった。ほうすけも慌ててヘッドギアーを付け、日本製の6オンスグローブを付けようと準備を始めた時、あかりが入って来た。バンテージは一人では巻けないのであかりが手伝ってくれた。
ほうすけのグローブをはめながら、会長に向かって言った。
「父さん、ほうちゃんにはまだ無理よ。壊れちゃうわよ」
「俺には考えがあるんだ。お前は黙っていなさい」
そう言われては黙るしかなかった。悲しそうな目でほうすけを見ると小さい声で
「無理しないでね」と言って、ほうすけから離れた。
「モタモタしないで早く来いよ」
山内は先輩と言う事もあり、6連敗中のほうすけを見下していた。ほうすけがリングに上がった。K会長は3分、3ラウンドだと言って、ほうすけにちょっと来いと手招きした。ほうすけが会長の傍に寄ると、小さい声で言った。
「ほうすけ、相手はお前より全ての面で格上だ。足もあり、ディフェンスも固い。しかし唯一パンチ力はお前の方が数段勝っている。最初の2ラウンドは防御一辺倒で行け。勝負は3ラウンド目だ。いいな」
それだけ言うと山内の方に向き、ほうすけのセコンドに付く旨を告げた。
ゴングが鳴った。
山内は軽いフットワークで出て来た。サウスポーのため右腕を前に出す構えでほうすけとの間合いを詰めて来た。ほうすけはオーソドックスな左構えだ。ほうすけはガードを固め近付いて行った。山内は軽いフットワークで左回りに動き、時折鋭い右のジャブを放った。ほうすけは左のグローブで山内のジャブをはらいながら、頭を左右に振りながら間合いを更に詰めていった。身長、リーチとも十数cmも勝っている山内を攻略するには接近戦しかないと、ほうすけは思っていた。山内の右ジャブが立て続けにほうすけを襲った。グラブで避けながら左に動く。そこへ待っていたかのように山内の力を込めた左ストレートが来た。ダッキングでかわす。瞬時に右アッパーがほうすけのレバーを襲う。これもなんとか左肘でブロックする。肘に軽い衝撃が走る。左のパンチを予測しガードを上げる。予測もしなかった右アッパーが再びレバーを襲う。右のダブルだ。間に合わないと瞬時に判断し、大きく後方へ跳ぶ。山内の右アッパーは空しく空を切った。
「ほうすけ、お前、俺とやる気があるのか?逃げ回っているだけでは勝てんぞ」
山内は挑発するように言い、瞬時に間合いを詰めて来た。ほうすけはさらに後ろへ下がる。ロープが背中に当たる。しまったと思った。山内はすかさず、右、右、左、右とパンチを雨の様に上下に繰り出す。ウイービング、ダッキングを駆使してほうすけは躱しまくった。1ラウンド終了のゴングが鳴った。山内はさすがに肩で息をしていた。弾む息のまま、ほうすけをじっと睨み据えていた。コーナーに戻って来ると会長は、ほうすけにうがいの水を遣りながら「それでいい」と言った。
「会長少しは打たして下さい」
と言ったものの、「相手のパンチの動きをよく見ろ、さすれば絶対にまともに食らう訳はないんだ」と言ったきり黙ってしまった。ほうすけは、従うしかなかった。
2ラウンド目が始まった。1ラウンド目と同じ様な展開となった。ただ一つ違うと言えば、ほうすけは絶対にロープを背にしなかった事だ。山内の放つ多彩なパンチをかいくぐり、逃げまくり、ガードをきっちり固めて、2ラウンド目も終了した。さすがに山内は何か言いたげだった。
「どうだ、相手のパンチが見えて来たろう?いいか相手が右のジャブを打って来た時に合せるように左フックを叩き込め。ダブルで、そして右ストレートだ」
ほうすけは、解ったと言う様に頷いた。
最終ラウンドが始まった。山内は相変わらず軽いフットワークで間合いを詰めて来た。ほうすけも、低い体制のまま近づく。早くジャブを打って来い、そう思いながら左のガードを少し下げ、相手を誘った。案の定山内は右のジャブを突いて来た。ほうすけは、瞬時に左へサイドステップし、左フックを山内のテンプルに思いっきり叩き込んだ。1発目で少しよろけ、2発目の左フックで大きく体制を崩した。それに乗じて左足を真っ直ぐ踏み込んで、えぐる様に右のストレートを顔面に叩き込んだ。山内はロープ迄吹っ飛んだ。ほうすけは、カッと頭に血が上り一気に間合いを詰めようと駆け出した。
「ほうすけ!!ストップ!!」
会長がとてつもない大声でほうすけの、突進を阻んだ。ほうすけは、我に帰ったように一瞬足を止め、会長の方を見た。山内は最後にほうすけが放ったストレートが鼻骨に当たったのか、鼻血を滴らせていた。目がうつろだった。
「そこまで!!」
スパーリングは終った。コーナーに戻って来ると、会長が言った。
「ほうすけ、解ったか?お前の悪い癖が。俺があそこでストップと言わなかったら、いつもの試合の様になっていたに違いない」
「解ったか?今のタイミングを忘れるな」
ほうすけはリングから降りると、あかりの横を通り過ぎ自分の部屋に向かった。
Kジムは1階が練習場とその奥にほうすけの部屋があり、2階から上が会長とあかりの住まいとなっていた。あかりの母親は、あかりがまだ幼い頃離婚しており、会長と2人暮らしだった。ほうすけは自分の部屋に入ると、着けているトランクスとサポーターを脱ぎ捨て部屋の奥に設けられているシャワー室へ入った。頭から熱いシャワーを浴びながら、山内とのスパーリングを思い出していた。あの時会長がストップと叫ばなかったら、多分いつもの様に突進していたに違いない。チャンスと思った瞬間に我を忘れてしまう。何故すぐに頭に血が上ってしまうんだろう。「ほうすけ、もっと冷静になれ!」自分自身に向かって吠えた。
身支度を整え、会長とあかりと一緒に朝食を摂り、アルバイト先のコンビニへ向かった。ほうすけの性格から言っても、何かしていないと気が済まない性質で、会長からはジムで後輩の面倒を見てくれれば良いと言われていたが、それでは気が済まなかった。コンビニでは朝の8時から午後2時まで働き、帰ってから後輩の練習を見ていた。2時間ほど練習生の練習に付き合い、自分のトレーニングを始めた時、会長が外出先から帰って来た。
「ほうすけ、次の相手が決まったぞ。Yジムの木崎高雄だ。戦績は2勝4敗のファイターだ。日時は2週間後の水曜日。どっちにしても新人王は縁のない事になっているから、気楽にやれるだろ?まあ、いつものお前の力を出せれば楽勝だよ」
「会長、ありがとうございます。今度こそ、俺やります」
ほうすけは、嬉しくて涙が出そうになった。普通デビュー以来6戦して一度も勝てなければ引退させられる可能性が高い。ましてこの小さなジムにそれほどの余裕はなかった。
「ほうちゃん、よかったわね」
あかりも何時来たのか一緒に喜んでくれた。まだ高校を出たばかりのあかりだが、ジムの会長でもある父親の仕事を手伝いながら、練習生の面倒も良く見ていた。
「あかりさん、ありがとう。俺、頑張るよ。君の為にも……」
最後は小さな声になった。
何時ものように練習のメニューをこなし、自分の部屋へ戻り、着替えようとしていた所へ外から声がした。
「ほうちゃん、入っていい?」
あかりの声だった。ほうすけは慌てた。シャワーを浴び、今出て来たばかりで、何も身に着けていなかった。「ちょっと待って」と言いながら、バスローブを上から羽織った。あかりは部屋に入って来るといきなり言った。
「ほうちゃん、私を抱いて……」
そう言うと身体をほうすけの方に預けて来た。慌てて支えると、丁度あかりを抱く様な形となった。あかりはほうすけに抱かれたまま、目を固く閉じ動かなかった。あかりの息吹が耳元で聞こえた。女性を全く知らないほうすけではなかったが、状況が状況だけにかなり困惑した。バスローブ一枚の布地を通してあかりの肌の温もりが伝わって来る。あかりは薄手のTシャツにジーンズと言う格好で、胸のふくらみが、はだけたほうすけの胸を強く押していた。あかりは息を弾ませながら唇を求めて来た。ほうすけは仕方なく応じた。唇と唇が重なり、両の腕に力が入った。そのまま一つしかないソファーベッドに倒れ込んだ。
「あかりさん、会長に叱られる」
「黙って…ほうちゃんが勝つ為に、私をあげる…」
そう言いながら、また唇を求めて来た。「やっぱり出来ない」と言いながら、ほうすけは両手であかりの身体を離した。
「あかりさん、俺も君の事を好きだ。でも今の俺では、こんな俺では嫌なんだよ。君を抱く時は世界一になってからと決めているんだよ。解ってくれ」
ほうすけは懇願した。

試合の当日が来た。場所はKホール。ほうすけは覚悟を決めリングに上がった。
「がーらあき!がーらあき!!がらあき!ほーすけー!!」
大合唱が巻き起こる。
ほうすけは、すこぶる人気があった。鳴り物入りで拳闘界入りし、期待を裏切った事もあるが、あまりの負けっぷりの良さで大変な人気だった。前座の試合にしては異常な人気だ。
「ほうすけ!きょうも一発で頼むぞ!」
「勝つなよ俺はお前がKOされるのを見にきたんだぞ!」
歓声と、どよめきで場内は騒然となった。リングアナが紹介を始めた。
「青コーナー!Kジム所属!○○パウンド、いまいー、ほーすけー」
「ワー!!キャー!!ウオー!!」あまりのすごい歓声で木崎の紹介の声がかき消された。
試合開始直前「山内とのスパーリング、わすれるな!」と会長が言った。
「カアーン!!」ゴングが鳴った。
木崎は気にいらなかった。何故あんな実績のない奴に人気があるんだ。絶対倒してやる。そう思っていた。一気にダッシュした。ほうすけはディフェンスに重点を置いていた。木崎がダッシュして来たのを見てガッチリとガードを固めた。木崎は一気に間合いを詰めて来ると、ファイターらしく何発もパンチを繰り出して来た。ほうすけは会長に言われた通り、パンチをよく見、ことごとく躱していた。躱しながらひたすらチャンスを待った。1ラウンドはそのまま終った。次のラウンド、次のラウンドも同じ様な展開で進んだ。4ラウンドの開始のゴングが鳴った。木崎に疲れが見え始めていた。木崎が間
合いを詰め、左ジャブから右ストレートを放った瞬間、ほうすけは左へサイドステップし、強烈な左フックを木崎のテンプルに叩き込んだ。木崎は大きくよろけ、後退した。すかさず、右ストレートから左のアッパーをフォローした。左のアッパーが見事に木崎のあごを捉えた。ロープ迄吹っ飛んだ木崎は、膝がガクリと落ち、グロッキー寸前だった。
場内から大きなざわめきが起こった。
「いけー!!ほーすけー!!やってまえー!」
「つっこめー!突進しろー!」
ほうすけは我を忘れた。足が勝手に走り出す。獲物を見つけた豹の様に。突進した。
観客はそれを見て大喜び、場内は騒然となった。
ところが、後一歩でパンチを打てる間合いまで来た時、誰もが信じられない光景を目にした。ほうすけはリングのマットに足を捕られ、仰向けにひっくり返った。その弾みで後頭部を強打し、すぐに起き上がれなかった。
場内は笑い声で騒然となった。あかりはホッとした気持ちと、何やら恥ずかしい気持ちが交錯して変な気分だった。
ほうすけは、ゆっくり起き上がると、グロッキー寸前の木崎に向かいパンチを浴びせようとした。ラウンド終了のゴンブが鳴った。大きなざわめきが、ため息に変わった。
「ほうすけ今の調子だ。忘れるな!」
会長が激を飛ばし、ほうすけは冷静、冷静とうわ言の様に繰り返していた。
次のラウンドはお互い疲れのせいもあってか、そのまま終った。
最終ラウンドのゴングがなった。相変わらずほうすけは「冷静に、冷静に」と、心の中で唱えていた。木崎がまるでスローモーションのように右フックを放って来た。ほうすけは、それに合わせる様に右ストレートを放った。手応えがあった。ストレートが、木崎の顔面にヒットしたのだ。木崎は顔を血で染めながらロープ際まで吹っ飛んだ。
「いけー!ほうすけー!」
色々なところで歓声が上がった。ほうすけは何も聞こえなかった。聞こえるのは「冷静に、冷静に」と言う自分の声だけだった。誰もがほうすけのノックアウト勝ちを信じた。
ほうすけはゆっくりと木崎の傍まで歩み寄ると、信じられない事をした。ダウン寸前の木崎の前でガードをガッチリ固め、頭を左右に振りながら、牽制しているのだ。パンチを出そうともせず、ただ木崎の周りを、犬の様に回りだした。
「ほうすけー!ばか野郎!何やってるんだよー!!」
あちこちで罵声が上がった。会長もあかりも、出来得る限りの声を張り上げ声援したが、ほうすけには届かなかった。試合が終った。ほうすけは辛うじて判定で勝利した。初勝利、ほうすけ23歳の夏だった。
ともあれ、K会長は大喜びだった。ジムに帰り祝勝会をやった。あかりも大喜びだった。

ほうすけはその後何試合かこなし、同じ様に僅差で判定勝ちを収めた。その後も同じパターンで勝ち続け、戦績も6勝6敗となり、日本フェザー級の9位にランクされた。ほうすけは、その後も同じ様に僅差の判定で勝ち続けたが、人気は下がる一方だった。そして、ほうすけは日本フェザー級のチャンピオンに輝いた。チャンピオンになっても人気は益々下がり、ほうすけの出場する試合場は人が全然入らなかった。人気もない為世界戦にも恵まれず、人を呼べない例えで、世間ではほうすけの事を『がらあきほうすけ』と呼んだ。
それでもほうすけは幸せだった。人は離れていったが、あかりと、Kジムを自分の物にした。ほうすけ、27歳の秋の事だった。


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