事件のあった学校へ行き、ぼくは門前払いの扱いを受けた。
前回、「事件の教訓を発信することの意味」と言うタイトルで、2005年に発生した教師殺傷事件の10年目について記述した。
その10年目、市の催しでは黙祷すらなく、事件のことの触れないようにするということが周知されている様相が伺えた。
その続きを話そうと思う。
ぼくたちは、その催し会場にこれ以上いても意味がないと判断して、会場を後にし、10年前に事件があった小学校へと向かった。
ぼくは、被害にあった教師がどのような場所で犯人と出遭い、どのようなルートを歩み、どのようにして息絶えたのか、その足跡を知りたかった。
そこから見えてくるものを教訓として学校安全に生かし、今いる子どもたちの、そして教師を含めた学校の安全に生かしていくべきだと考えていた。
ぼくたちは、校門の前で管理職が帰ってくるのを待った。
校門の脇には、白布がかけられた児童机が1つ置かれ、献花台として設置されていた。
ポツリポツリと、手を合わせていく卒業生などがいた。
何人かの教職員が自動車の通用門から入り、しばらくして出てくるといった様子が繰り返された。
おそらく、被害教師の元同僚だろう。
被害教師は、同僚からも児童からも、厚い信頼を得ていたと聞く。
やはり、被害教師の命は忘れられていたのではない。
手を合わせ、10年経った月日でも、その死を悼む人々の姿を見ながら、市が隠そうとしている、あるいは表面化させないようにしているだけではないかという気がした。
そして午後になり、管理職が戻ってきていることを確認したぼくは、正門のチャイムを鳴らした。
すぐに女性の教職員、おそらく教頭先生から応答があった。
ぼくは名前を名乗り、職業を言い、学校安全の研究をしている者であることを伝えた。
そして、10年前の事件のことで、調べたりお話をお聞きしたいので、入校の許可を得たい旨を言った。
本来、学校というものは身分がはっきりし、来校の目的が明確なものの入校を拒否することはまずない。
たとえばぼくが9年間勤めた大阪教育大学附属池田小学校であれば、年間に何人、何組もの学校訪問がある。
附池小はそのすべてを受け入れ、事件のこと、学校安全の取り組み、安全教育の方法や内容について、すべてを明らかにして情報提供し、研究成果や取り組みの成果を発信してきた。
「開かれた学校」とはそういう意味だ。
門を「開いている」と言うことではない。
しかし、そうではない現実が私の目の前に訪れた。
10年前に事件のあった小学校でチャイムを鳴らし、名前も身分も名乗り、来校の目的も明確に伝えたぼくに、教頭先生はにべもなく言った。
「そのようなことは、すべてお断りしています」
ぼくにとって、その教頭先生の言葉はあまりにも予想を覆す言葉であり、想像さえしなかった言葉であっただけに、一瞬絶句し、戸惑った。
百歩譲って、「取材はお断りしています」であれば理解できる。
ぼくたちも、取材カメラはおそらく入れてもらえないだろうから、ぼくだけが校舎内に入らせてもらおうと話していた。
ぼくは、教頭先生の入校拒否の言葉に信じがたい思いで一度だけ食い下がった。
「学校安全の研究のためです。私一人が校内を歩かせてもらうだけでいいのです」
教頭先生の返事は同じだった。
「そのようなことも、すべてお断りしているのです」
ぼくはまるで、悪者のようだった。
学校の中に一歩も入れてもらえない、悪者だった。
言いようのない疑問と不信感が、ぼくの中で抑えきれなくなり、次の行動へと向かわせた。
もちろん、まず第一に遺族の思いがある。
それが優先されるべきだ。
遺族がこの事件を早く忘れたい、そっとしておいてほしいと思っているなら、ぼくはもちろん、マスコミも手を引くべきだ。
でも、それぐらいはTさんも十分に調査している。
遺族は、忘れたいと思っていない。
その確信と確証があったから、ぼくたちは動いていたのだ。
その後について、次回に続けて行こうと思う。