臨済録 (入矢 義高)
(注:本稿は、2016年に初投稿したものの再録です)
中国唐の禅僧で臨済宗の開祖臨済義玄の言行を弟子慧然が記したものです。
“語録”の中でも一定の評価を受けているものということで手に取ってみました。
“語録”といっても「仏の教え」をベースにしたものですから、私のように最低限の仏教・禅宗の基礎的な素養すらない人間が読んでもやはり全く理解できませんでしたね。
たとえば、“棒と喝のどちらが法の示し方として勘所を得ているか” を説いた一節はこんな具合です。
恥ずかしながら、私にはこれがどういうメッセージなのかさっぱり分かりません。
とはいえ、そのなかでも、2・3、単なる覚えでしかありませんが、気になったくだりを書き留めておきます。
まずは、「外に仏法を求める修行者の姿勢」を否定する臨済の教え。
臨済は、「何者にも依存しない“無依の道人”はお前たちそのものなのだ」とと説きます。
臨済は「自らを信じきれぬ修行者」を厳しく叱咤します。自らの外に求める仏はいないのです。それは、自らの認識でしかない、自らの外に客体としての仏が存在するわけではないのです。
というわけです。
そして、もうひとつ。潙山が後に、「師の法恩に報いるもの」という点から黄檗と臨済との師弟関係を語った言葉。
弟子は師を越えた存在にならなくてはならない、法を未来に伝えるためにも師はそういう弟子を育てなくてはならないということですね。
さて、本書を読んでの感想です。
こういった類の書は、「解説本」ではなく「原典」に当たれとよく言われますが、とはいえ、原典に向かうのであれば最低限の知識は必要でしょう。それは、漢文・古文の解釈力はもちろん、仏教(禅)をはじめ基本的な東洋哲学の知識もです。さもないと私のように、ただ文字を追うだけという情けない様になってしまいます。
ただ、ときに無謀にも、この手の書物を手に取ってみたくなるのが不思議ですね。