TheBazaarExpress54、天才レーサー福沢幸雄とその時代~福沢幸雄編
1章・
64年開催の東京五輪を成功させた日本が、経済の高度成長期を経て大きく変化していった60年代から70年代にかけて―――。人はこの時代を、「日本の黄金時代」と呼ぶ。
首都東京には東海道新幹線や首都高速道路等が建設され、「戦後」の残滓はコンクリートやアスファルトで上塗りされた。民間人の海外旅行自由化も64年。人々は堰を切って海を渡りだす。雑誌の創刊ブームは59年に始まり(朝日ジャーナル、少年マガジン等)、64年には平凡パンチが創刊。メディアは次々と長嶋茂雄や石原裕次郎、加山雄三ら時代のスターを生み出していった。
ちょうどこの頃、六本木のイタリアンレストラン『ニコラス』で深夜皿洗いのアルバイトをしていた椎名誠は、当時をこう書いている。
「ぼくが生まれてはじめて食べたピザは残り物の、すっかり冷えたピザだったけれど、それなりに異国の味がして感動的で「いいバイトだなぁ」などとみんなでうなずきあっていたものだ」(東京巡礼第4回)
当時高卒男子の初任給は1万3000円余、大卒男子で1万9300円。「所得倍増計画」が喧伝され賃金水準は上昇基調にはあったが、若者を中心に映画や雑誌から伝わる欧米の文化や生活への憧れは根強かった。
この時代にあって、慶応義塾大学に通う学生の身でありながら、トヨタの契約レーサーとして年間200万円を越える契約金を得、同時にモデル兼デザイナーとして月額15万円もの報酬を得ていた若者がいた。
福澤幸雄。仲間たちは皆、彼を「サチオ」とファーストネームで呼んだ。
よれよれのコートをジャン・ギャバン風に着こなし、風の様に現れては寡黙な中にも印象的な言葉を一つ二つ残してサッと去っていく男。170センチ60キロの痩身に日本人離れした彫りの深い顔だち。戦時下(1943年)のパリに生まれ、日、英、仏、ギリシア語の4カ国語を自在に操る語学力。車のメカニズムやファッションの知識は無論のこと、音楽はクラシックからジャズ、ポピュラーまで、さらに最新のダンスや食べ物、日本の骨董にまで広がる博覧強記ぶり。それらの知性は福沢諭吉の直系に連なる父・進太郎から受け継ぎ、ギリシア人オペラ歌手の母・アクリヴィからは、ラテンの情熱がどくどくと流れ込んでいる。
どこからみても何をとっても飛び抜けて華やかなエッセンスの持ち主。しかも、彼を知る誰もが持つ幸雄の印象は、「生活のために働くそぶりが微塵もなかった」こと。
絶えず需要が供給を上回り、量的な豊かさを求めて人々が「働くこと」を最上の美徳と盲信した時代にあって、幸雄は一人、「自分をクリエイトすること」に生き甲斐を見いだし、自らの美学に生きていた。
当時、ある時は一日15時間も時を共にしていたミュージシャン・かまやつひろしの言葉が、幸雄のスタイルを言い当てている。
「ボクらは当時のアイビーやVANとかの流行なんてダサいと思ってましたね。2つの派が分かれるとするなら%の少ないほうを選ぶ。本当に好きな物を持っていたり着ていたり聴いていたりするのは自分一人だったらもぅ最高。それが価値観の基準だったような気がするな」
ときに幸雄は、当時極めて珍しかった生バジルのスパゲティに平気で醤油をかけ、ヨーロッパで買ってきたシャツの袖が長すぎるからと自ら鋏を入れた。自分のアパートではシャケ缶をご飯にかけて「これ美味いんだよ」と食べてもいる。どんなシーンでも全てが絵になる男。あくまで天真爛漫で、自らのスタイルを疑うことを知らない男。
メディアは、その容姿や華やかな活躍から「日本で一番かっこいい男」と仰々しいタイトルをつけた。(69年3月3日週刊サンケイ)。
だが幸雄自身は、「カッコよさとか孤独などというものは、観る側の勝手な想像であり私とは無縁だ」と語り、それを突っぱねる。そのポーズもまた、若者にはたまらなくストイックに映った。
あるいは後述する「悲劇」と、恋人と言われたアイドル歌手のブラウン管での「号泣」の記憶から、幸雄の残像を「悲劇のヒーロー」とイメージする者も少なくない。
けれど仲間にとって幸雄のイメージは、大衆に「消費」されるほどやわなものではなかった。
「幸雄はね―――」
友人知人たちは皆一様に、40年前に突然姿を消した幸雄のことをまるで昨日会ったかのように語りす。
「贅沢な男だったよね―――」
少年時代からの竹馬の友の言葉が、その存在感の本質を現している。
2章・
「当時、金持ちのボンボンが集ったレース界でも、彼は一人だけボクらにない文化を持っている男でした」
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