TheBazaarExpress57、古都金沢の暮らしを支える職人技~山口智子と金沢編

 その時、冬の北陸の厚い雲がスッと動いて、鮮やかな陽光が兼六園近くの巨大な海鼠壁を照らした。山口智子が呟く。

「綺麗! 屋根瓦の影と漆喰の白の対比が絶妙! この壁はちゃんと天から射す光を考えてつくられていたんですね」

 冬の古都・金沢。この地に息づく職人の手技と人々の暮らしの様を訪ねて、山口はやってきた。その目の前で展開された漆喰の壁と光の美しいアンサンブル。それは、この街に確かな職人技とそれを守り育てる人々の美意識が根付いていることを示している。

   市内のあちこちに残る江戸時代末期建立の町家を訪ねると、その生活の中にも「自然光」が巧みに取り込まれていた。

「すみませんが蛍光灯を消していただけますか―――」

 撮影が始まる前、山口がこの家の主人に頼んだ。それは撮影のためだけではない。奥座敷には中庭からの豊穣な間接光が差し込み、金沢の町家特有の朱色の壁や床の間を優しく照らしだしている。のっぺりとした蛍光灯の光はむしろ邪魔なのだ。

「玄関の吹き抜けには天窓もあります。電気がない時代にはそれで充分だったんですね」

 この家を守り続ける正木洋子が、穏やかな笑顔で言う。表通りに面して狭い戸口を並べる町家は、うなぎの寝床と呼ばれる。かつては間口に比して軒役という税金が課せられたし、表の間は商空間だったから、店数を増やすにはこの構造が最良だった。玄関を入ると炊事場でもある通り庭が奥に続き、最深部には蔵も建つ。上がり框下のくつ箱、階段下の抽斗、表戸をカバーする蔀戸等、各所に工夫が施され、機能美に満ちている。

 奥座敷には一間半の大きさの3枚折れの扉があった。開けると立派な仏壇だ。洋子が言う。

「この座敷で人生の行事のほとんどをこなします。結婚式もやれば葬式も。かつては出産もここで行いました。おばあちゃんまではここで生まれたんです」

 それにしても、鮮やかな朱壁はどこから生まれたのだろう。

   今回の旅の案内役、金沢在住の作家・坂本善昭が言う。

「もともとは重要文化財の成巽閣の座敷に群青壁、紫壁、朱壁がつくられ、それが明治7年に人々に公開されてからの流行と言われています」

 成巽閣は加賀藩13代藩主前田斉泰が、母・真龍院のために建てた別荘の一部が残ったもの。江戸末期の数寄屋風武家住宅で、インド・ムガール帝国製の家紋付きの絨毯等も使われている。加賀100万石大名の財力を今に伝える重厚な建物だ。

「財力を注ぐ気概も見事だけれど、その思いを叶えた職人の腕の冴えもすごい」

 確かに山口が言う通り。100年以上前の朱壁や海鼠壁が残るのは、優れた左官職人の存在の証。その伝統は今日にも続いているのだろうか。坂本が紹介してくれたのは、若き左官・藤田秀紀だった。藤田が言う。

「左官の仕事は全て手作業で、素材の調合は勘頼りです。そういう仕事ができることを誇りに思っています」

 その藤田家を訪ねて驚いた。新築の家の玄関の壁は磨き込んだ白漆喰。リビングのカウンターの下はモロッコの黒漆喰。家中の壁という壁が異なる15種類もの土壁で作られ、さながら左官職人のショールームだ。

「全て自分で塗ったので1年半かかりました。土壁は湿度を吸排出して嫌な音も通しません。快適な生活空間です」

      ※

   正田家で出会った魅力的な仏壇。それも金沢の職人の力と生活様式の典型を示している―――。そう感じた山口は、市内安江町の山田仏具店を訪ねた。大正期に作られた大きな仏壇を覗きながら、山口の瞳が輝く。

「子供の頃仏壇を覗くのが怖かった。でも怖いけれどつい引き込まれて見てしまう。よく見ると豪華絢爛な竜宮城のようでわくわくしますね。寺院の装飾などを見ていつも思うのは、歌や踊りや話や装飾で人を惹き付ける芸能に通じるエンターテイメントだなあと。観音開きの扉を開ける仏壇も、昔家にあった観音開きのテレビとどこか通じるものを感じます」

 それにしても、何故金沢の仏壇はこんなに立派なのだろう。

 山田が丁寧に答えてくれた。

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