TheBazaarExpress95、残酷なるかな森達也~映画『FAKE』評

森達也監督作品、『FAKE』を試写でとても興味深く観てきた。

いうまでもなく、私にとっては懐かしくもある「佐村河内守」と「香」夫妻の事件のその後を描いたドキュメンタリー映画だ。

試写の前に、試写状に添えられた森監督のコメントを読んだ。概略すると、

「誰かが笑う。それをニコニコと書くかニヤニヤと書くかでうける印象は全く違う。(略)どちらが真実でどちらが虚偽かなどと論じても意味はない。(略)これを記述する人が、その笑い(あるいは笑う人)に対してどのような意識や感情を持っていたかで、表現は全く変わる。(略)それが情報の本質だ。メディアに限らずぼくたちが認知できる事象の輪郭は、決して客観公正な真実などではなく、あくまでも視点や解釈だ。言い換えれば偏り。つまり主観。ここに客観性や中立性など欠片も存在しない(以下略)」

なるほどそうだよなと思う。日頃「ノンフィクション」を標榜する身として、客観を装いながら主観で報じていないか、身につまされる思いだ。果たして森監督は、ジャーナリズムに属する者の逃れがたいこのジレンマから、どう自由になっているのか。否応なくそこに興味は募る。

だが上映が始まってから1時間50分後―――、私は愕然とした。

一言で言えばこの作品は、「中国の山奥に分け入ってジャイアントパンダの生態撮影に成功しました」という記録映画だった。最近では、ナレーションも音楽も挿入せず、ひたすら被写体を撮り続ける「観察映画」も存在するが、この作品にもまたどこにも調査報道の跡はない。パンダは目の前で巨大なハンバーグを食べ、毎食豆乳を一リットル飲み干す。時として「自分は聴覚障害者で聴こえない」「一連の作品はゴーストライター作品ではない。共作だ」と吠える。その姿を延々と淡々と撮り続けているばかりで、その生態、その主張の裏を掘り進んで描くシーンは皆無だ。

確かに新垣隆氏がバラエティ番組や雑誌にモデル気取りで露出するシーンを連続して並べる場面では、氏に対するメディアの偏った報道と氏のはしゃぎぶりは印象的だ。佐村河内氏がそこで呟く「新垣は世間で思われているようにいい人なのか」という一言は効果的に響く。私の佐村河内氏の記者会見での「まだ手話が終わっていませんよ」という発言も、そこだけ切り取れば「聴覚障害者を侮辱している」というイメージで解釈することもできる。だがそれは編集によって見せる角度を変えただけのイメージ操作だ。調査報道ではない。

目新しいとすれば、守と香の二人を並べて、「言葉で言ってください」と森監督が強要するシーンか。

「妻を、香を愛しています。相手が香でなかったらいまの自分はいない。ありがとう」

「こちらこそ、ありがとう」

「辛かったよね」

「大丈夫です」

ボギーがいてクライドがいる。阿部定がいて吉蔵がいる。ジャイアントパンダの求愛シーンとして、それはそれで貴重なシーンではある。

だがこの作品、撮影には事件が発覚した2014年秋から約1年半を費やしたという。その間BPO(放送倫理、番組向上機構)からは、約1年を費やして詳細な調査報道レポートが出されている。

『「全聾の天才作曲家」5局7番組に関する見解』(2015年3月6日発行)

そこには、「佐村河内氏は作曲したのか」「佐村河内氏は全聾だったのか」という、まさに『FAKE』の中でパンダが吠える2つのテーマに関する調査報道がなされている。

その結論は、こうある。

「佐村河内氏には交響曲を作曲する音楽的素養や能力はなかった。(略)佐村河内氏が果たした役割は、新垣氏に楽曲のイメージ構想を指示書等で伝えるプロデューサー的なものだった。実際にメロディ、ハーモニー、リズムを作り、譜面にして曲を完成させたのは新垣氏である」

聴覚障害については、佐村河内氏が所持していた2002年の医師による診断書と、2014年の事件発覚後に行われた医師による診断書をもとに、慶応大学医学部耳鼻咽喉科・小川郁教授が医学的な意見を寄せている。

2002年の診断書には「感音性難聴、右101デシベル、左115デシベル、障害者二級に該当する、鼓膜・著変なし」とある。

2014年の診断書では「純音聴力検査、右48デシベル、左51デシベル、語音聴力検査最高明晰度右71%、左29%(略)鼓膜・正常 上記の結果により聴覚障害には該当しない」と記されている。両者を比較して、小川氏はこう記す(概略)。

「両耳が純音聴力検査で100デシベルを超えるような高度な感音難聴になった場合、自然に改善することは現在の医学的知見ではまずありえない」

「2002年当時、100デシベル以上の結果が出ている理由としては、軽度から中程度の感音性難聴にくわえて、機能性難聴(心因性難聴または難聴であることを偽る詐聴)を合併したものと考えられる」

「2014年の語音聴力検査の結果では、右耳は7割以上の音が聞きとれており、左耳が3割程度の落としか聞きとれないとしても、両耳聴効果があり、両耳で聴いた方が聞き取り能力はあがりわかりやすくなる」

「これらの検査結果を総合すると、佐村河内氏は現在、軽度から中程度の難聴があると考えられる。(略)この状態にある難聴者は、補聴器を使用して会話をするのが一般的である。佐村河内氏に手話通訳は必要はないのではないか」

これが医学界からの診断結果なのだ。

森監督は、この結果を知らなかったのだろうか。あるいは無視したのか。

ジャーナリズムは、どんな事件においても、先達の報道や調査をもとに、そこからより深部へより広角度で調査報道を展開し積み上げていくものと私は思っている。森監督も試写状に書いているが、「メディアの最前線において「真実」とか「真相」などの語彙がとても安易に消費されている」現状を共有する者として、私たちジャーナリストはせめてそうすることが読者視聴者観客に対する真摯な姿勢だと信じる。

残念ながら1年半もの時間を費やしながら、『FAKE』にはその足跡は欠片も見られない。ただ漫然と、ジャイアントパンダの生態と主張を映し出すだけだ。

そして森監督が残酷なのは、試写状によれば「誰にも言わないでください。衝撃のラスト12分」と書かれた部分に描かれたシーンだ。

その直前のシーンで、佐村河内氏はアメリカからやってきたジャーナリストの厳しい質問にたじたじとなる。

―――この18年間でなぜ楽譜を覚えようとしなかったのか?

「覚えませんでした」

―――あなたは指示書を書くことが作曲だと思っているのか?

「この何十倍もの密度で指示書を書きます」

―――音源を弾いているところを聴かないと証拠にならない。この指示書を音楽に変える方法がわからない。弾くところを見せてもらえますか。そしたら一目瞭然です。

「もう長いこと鍵盤に触っていない。(香に)いつだっけ(キーボードを)捨てたの?家にはないです」

―――なんでないの?捨てる必要ないじゃない。

「部屋が狭いから。すごく狭くて」

このやりとりのあと、ジャーナリストが去った部屋で森監督はいう。

「音楽をしませんか。作曲しませんか。本当に音楽が好きなんでしょ?頭の中にあふれているんでしょ?出口を求めているはずです。これだけ時間があったんだから。ぼく(曲ができるまで)たばこを辞めます」

そしてしばし時が流れ、「ご無沙汰しています」と森監督が佐村河内宅の玄関を開けると、香氏が「守さんは音楽部屋にいます」と誘う。そこには立派なシンセサイザーが鎮座し、左右には何本かのスピーカーが積み上げられている。

補聴器をつけた佐村河内氏が、両手でキーボードを弾きながらシーケンサー等を使って短いメロディを打ち込みで重ねていく。雅楽の音、鐘の音、弦楽器の和音、ファンファーレ、シンバル、暗い主題部分、鐘が鳴り響くカーン、カーン、カーン。

やがて完成した曲が流れ始める。メロディが鳴り響く。つまり「演奏」ではなく「再生」だ。約4分の作品が流れる。

そこにタイトルロールがかぶさる。一見、佐村河内氏の隠れた作曲能力がベールを脱ぎ、そこから後光が指すかのように―――。

ところが皮肉にもこのシーンにこそ、「森達也」の残酷さが示されている。この作曲方法は、実は新垣氏と出会う前の佐村河内氏のやり方だった。佐村河内氏はロックバンド「KIDS」時代にもシンセサイザーを操って、メロディだけは仕上げてきたと仲間が証言している。

だがその自作のメロディは、日の目を見ることはなかった。どんなにレコード会社や音楽事務所に売り込んでも、誰も相手にしてくれなかった。駄作だったからだ。だからこそ若き日の佐村河内氏は、己の才能に見切りをつけ「新垣隆」という才能にすがったのだ。

佐村河内氏は森監督の要請により、この作品の中で自ら捨て去った凡才をここに再生しなければならなかった。世間に披瀝しなければならなかった。このシーンでわかるのは、プロデューサーとしては比類なきペテン師の冴えを見せた佐村河内氏が、クリエイターとしては凡百の存在であるという、残酷な事実だ。

さらにいえば、森監督が「主観と客観の狭間の表現で苦悩する」ジャーナリストであるならば、このシーンのあとには次の質問を用意しておくべきだった。

「自分で演奏できるのに、なぜ他人に創作を委ねたのか?」、と。

全く音楽に無知無能な者が他者に創作を委ねるならば、まだ理由もたとう。

けれど仮にも4分の曲を仕上げることができる者が、なぜ他者に創作を全面依存するのか。

それは無知無能よりも愚かな、唾棄すべき打算以外の何者でもない。

その問いかけすら放棄するこの作品は、ジャーナリズムではない。単なるエンタテインメント作品だ。ならば冒頭に掲げた「主観か客観か」という問いは、完全に無意味だ。ここには真相や真実を問う姿勢などないのだから。

試写状の中で森監督は書く。「僕がドキュメンタリーを撮る理由は何か。(略)最終的には『見て見て!こんなのできたよ』です。全ての人に『見て見て』とお願いしたい作品になりました」

まるで甘やかされて育った「末っ子長男」の性癖そのものだ。

試写状には、こういう表記もある。

「本作『FAKE』は15年ぶりの新作ということになります。「下山事件」に「中森明菜」、「今上天皇」に「東京電力」など、撮りかけたことは何度かあったけれど、結局は持続できなかった」

さもありなん。こうしてみると森作品は、オウム真理教事件や佐村河内事件といった「メディアクライシス」がないと成立しない。数多のメディアの視線にさらされた被写体の裏側からメディアを、世間を逆照射することしか方法論を持たない。森監督は過去20年間に渡って、同じ方法論を繰り返しながらいくつかのテーマを追い作品を紡ぎ、その方法論が成立しないケースでは未完に終わってきた。

いわば過去の自作の再生産の繰り返し。それはクリエイターたる者の姿勢だろうか。

「見て見て、こんなジャイアントパンダが撮れたよ」というそのはしゃぎぶりと作家としての性癖を見てくると、ペテン師としての矜持すらこの作品で失ってしまった佐村河内氏が可哀相にもなる。

残酷なるかな「森達也」。とはいえ最も残酷さを被るのは、この記録映画を見せられてしまう観客でこそあるのだけれど。

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