TheBazaarExpress30、ミスチルはいかにしてナンバーワンになったか~ミスチル編(1995,05)
1 夜明け前
それは、夜明け前の光景だった。
東の空にはうっすらと光の帯が広がり始めてはいたが、まだ太陽はその姿を現していなかった。
’94年1月1日午前5時頃。大田区下丸子の路上に、7〜8人の若者たちが姿を現した。
「楽しい夜だったよ」
「また来年も集まろうよ」
「また鍋で盛り上がろうか」
「今年もお互い頑張りましょう」
元旦の早朝。寝静まった街にそんな会話を響かせながら、若者たちは通りがかるタクシーをつかまえては、2人、3人とそれぞれ別々の方向に走り去って行った。
若者たちが集まっていたミュージシャン原一博(現『WILD STYLE』)の部屋に残されたのは、食べ残された鍋料理、何本かのビールやウイスキーの空き瓶、そして深緑色のシャンパン『ドンペリニヨン』の空き瓶だった。
夜の街に散っていったのは、その前年、原がサポートメンバーとして一緒に全国ツアーを廻ったMr.Childrenの桜井和寿、田原健一、鈴木英哉、中川敬輔たち。ガランとした部屋には、まだ彼らの友人たちや集まった事務所のスタッフたちの笑い声の余韻が残っていた。
宴もたけなわになった頃『ドンペリニヨン』を持って現れたのは、Mr.Childrenのプロデューサー・小林武史だった。それまでは興に乗ってズボンを脱ぐような悪ふざけをしていたメンバーたちは、小林が来るととたんに借りてきた猫のようにおとなしくなった。その仕種がまた可笑しくて、その場の誰もが笑いをこらえるのに必死だったという。
部屋のモニターでは、横浜アリーナで行われているサザンオールスターズのカウントダウン・コンサートが流されていた。午前0時きっかりに、桑田佳祐の「ハッピー・ニュー・イヤー」の雄叫びを見届けて、小林ら数人は、コンサート会場に顔を出すために部屋を出ていった。
小林の車のエンジン音を確かめると、メンバーの誰かがすかさず小林の物真似をし始めた。それまで我慢していた「ギャグ」が一斉に弾けて、それでまた一同が爆笑に包まれるという、なんとも微笑ましい時間が再びやってきた。
誰もまだ、この年に始まるMr.Childrenのシングル6枚連続ミリオンセラーという快挙を予感している者はいなかった。8月に発売されることになる4枚目のアルバム『Atomic Heart』が300万枚の売り上げを記録することなど、誰も思ってもみなかった。1年後の同じ日に彼らが「日本レコード大賞」を獲得することなど、誰が予想できただろう。ましてモニターの中のサザンと自分らが共演することなど、夢にも描けないことだった。
1年後の大晦日にはまた、仲のいい友だちと集まって鍋が囲める。桜井も、田原も、中川も、鈴木も、そう信じて疑わなかった。
だが彼らの無邪気さの奥で、夜明けが近づく「気配」が広がっていたことも確かだ。
この時点で、前年11月22日発売の『CROSS ROAD』は、主題歌として使われていた日本テレビのドラマ『同級生』の放送終了を待っていたかのように、20位近辺からトップ10目指してジリジリと上昇を始めていた。’94年1月の最初のチャートは8位。放送が終わってから人気が出るという、タイアップ曲が「大化け」する典型的なパターンだ。
桜井の胸の中には、『CROSS ROAD』ができた瞬間に確信した「絶対に100万枚売る作品になる」という思いは生きていた。小林は、半年前に完成した3枚目のアルバム『Versus』以来、ある手応えを感じていくつかの仕掛けを実行に移す時期を狙っていた。『CROSS ROAD』のでき栄えには満足していても、求めていた「心情の細部を彷徨う音楽」にはいま一歩という思いもあった。ましてこれ一発で終わったのでは何にもならない。
「夜明けは必ず来る。だがいつ、どんな太陽が現れるかが問題だ———」
夜明け前。それぞれの思いを胸に、小林と桜井、そして3人のメンバーは、まだ闇の残る街に消えていった。後にMr.Childrenの年として記憶されることになる’94年のスタートは、あくまでも静かに幕を開けていった———。
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