TheBazaarExpress106、貴族になりたかった男を支えた妻~辻調理師学校辻勝子

「今も心に残る、料理に対する主人のあの言葉」

   私、恥ずかしながら初めて主人に出会ったときにいただいた名刺を持っているんです。娘や息子にも見せたことがないんですが、ちょっと言えば、私の宝物です。

「読売新聞記者」って書いてありますでしょう。あの日、もう50年以上前のことになりますが、アメリカの交換留学生が10名ほど父が経営していた料理学校をみたいということで、主人は記者兼通訳としてやってきました。

黒塗りの車で社旗を立ててやってきて、私はその当時、サラリーマンの奥さんに憧れていましたので、かっこ良く写ったんですね。

父だったか私だったか、名詞を交換して「あれ?名字が同じ辻で偶然ですね」と言ったことを覚えています。

その当時、私も名詞を持っていました。というのは、その前の前の日くらいにロサンゼルスから帰国したばかりだったのです。昭和33年のこと、私は1年間、料理の勉強のためにロサンゼルスにある「テクニカル・ジュニアカレッヂ・ハウスホールド・サウスセクション」という学校に留学しました。今思えばとても手頃な、女の子が好むフランスにあるコルドンブルーみたいな学校でした。

その学校ではお料理とサービスと、その当時はもうすでに「おもてなし」という言葉がありましたけども、そういうことを朝からずっとグループに分かれて学ぶんです。今日はお料理担当、今日はテーブルセッティングをしてサービス担当というように。その繰り返しですから、今の辻調のフランス校に似ていますね。勉強になったのは、サービスとかカトラリーや内装も含めて、食空間の雰囲気全体を演出してお客様に楽しんでいただくという精神です。そういういうところに目が行きました。

同級生には、大勢のアメリカ人と中には黒人もいましたしメキシコ人もいました。お嬢様だけではなく、ケータリングをするおばさんたちもいました。もちろん日本人は私一人です。放課後はどこそこのパーティがあるからそれに行ってみたい人はちょっと手を挙げてと、先生に言われたりして。

場所はハリウッドのビバリーヒルズの真ん中でした。ロデオドライブとかあるところ。環境としても素晴らしいところです。ああ、こんなところに学校があるんだって思いましたから。それがイメージにずっと残っていて、今思えば、80年に生まれたリヨンのフランス校に繋がっているんです。授業の内容から何からよく似ているなぁって。フランス校の入り口に続くポプラ並木まで、ロサンゼルスの学校と全く同じです。私は教会の宿舎のようなところにホームステイしながら、そういう1年を送りました。

もちろん、この学校に行きなさいと言ったのは父です。私の両親は、すでに昭和27年(1952年)に、日本料理の大使としてアメリカに渡りまして、半年間、全土をまわって日本料理を紹介して、各地で大喝采を得ておりました。その時のご縁で、向こうで私のお世話をして下さる方がいらしたのです。渡米していた時すでに、両親の中では、こういう環境の中に娘を留学させて勉強させたらいいんじゃないかと思っていたようですね。

 もちろん出発前は、その後こんなに料理に関わることになる人生が待ち受けているなんて、夢にも思っていませんでした。まだ日本人の海外渡航は規制があったころでしたから、大阪駅に200人くらいあつまってくれて、羽田空港にもみ送りの方がいらして。拍手されて、「万歳」されて花束贈呈もありました。

今から思えば、両親の渡米した昭和27年といえば、日本が占領を解除されて独立した年ですから、国際化が言われ始めたときだったと思います。その中でも両親は、比較的進んだ考え方を持っていたと思います。

 その一方で、当時両親が経営していた割烹学校と言うのは、花嫁修行のお嬢様たちが毎年入ってくる、古い時代の学校でした。父は料理人としてはオーラがあって、講習会を開くと何百人も生徒が集まるような人気者でしたが、このままでは自分の本当にやりたいことが実現しないと思っていたようです。やりたいことを探していたというか―――。

つまりそれは、女性に家庭料理を教えるだけではなくて、専門的な日本料理人を育てたいという思いでした。そういう希望があったと思います。

私には兄もいましたが、そのころすでに兄は独自の料理学校を展開していました。企業として日本中に料理学校をつくりたいというようなヴィジョンを持っていて、父とは相いれなかったのです。だから当初から私に、後継者になるような婿をとらせたかったのでしょう。私を留学させて帰って来たら、そこにたまたま同じ辻という名字の若者がやってきた。しかも、主人は早稲田大学の仏文科の卒業ですから、フランス語もできるに違いない、これからの国際化の時代を考えたら、この若者なら婿にいいのではないか―――、最初に主人を気に入ったのは、父だったと思います。

 そもそも私が主人に出会うきっかけになったのは、外国で勉強させてもらったのは両親のお蔭だから、帰国後1年間だけは父の学校のお手伝いをしましょうと思ったからです。でも1年経ったらお役御免で、理想としてはサラリーマンの妻としてのんびりと家庭を守るいい奥さん、いいお母さんになって穏やかな生活を送りたいと思っていました。

なぜなら両親の生活は、本当にもう四六時中人が出入りしていて、全く落ち着かないんです。昼間だけではなく、夜も夜間部の生徒が来ます。せっかく育てた弟子がいろいろな問題で去っていったりして、四六時中頭を痛めていました。そういう姿をずーっと子供の時から見ていましたので、あんなことをしてまで人を育てて、その結果裏切られる様な仕事は絶対にごめんだ。ああいうのはしたくない。失礼かもしれないですけど、サラリーマンの世界の方と結婚したらもっと安定した生活が実現すると、それを狙っていたんです。

 一方主人は、独身時代のアパートには何もない、身一つの生活だったようです。新婚の所帯に持ってきた本もなかったし、レコードもありませんでした。「これには絶対に触るな」なんて言う宝物もなかったようです。

聞いていたのは、学生のころは映画音楽家になりたかったそうです。映画音楽を作曲したかったって。元々大学もあんまり行ってなくて、音楽喫茶とかに入り浸っていたそうですから。当時は映画の大全盛時代でもありましたから、そういう仕事に憧れていたんでしょう。でもデートにさそってくれたのは、映画ではなく不二家のレストランでしたねぇ。

            ※

結婚したのは主人が25歳、私が20歳のときでした。もちろんこの時主人はまだ新聞記者でした。そうでなかったら、私は結婚していなかったんですから。

その新婚生活の2年間は、私の人生で一番幸せな時でした。理想の生活ですね。毎朝「いってらっしゃーい」と主人を送り出して、自分はちょっと実家の手伝いをして、夕方お迎えするっていうような。ああ、こういう人生っていいなあとしみじみ思っておりました。ところが、実は私の知らないところで裏工作があったんです。父と主人の二人の間で。

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