TheBazaarExpress61、明治の青春群像、その1~T.ルーズベルト大統領を魅了した明治の柔道家たち

21世紀国際ノンフィクション大賞優秀作受賞の気鋭のジャーナリスト神山典士氏は、いま日本が誇れるものと言えば、まず明治時代の柔道家たちの生き方があげられる、と指摘する。開国から約40年の極東の小国から、独自の文化を世界に広めるために旅立った明治の若者たちに学ぶべき点も多い、というのだ。それは単に格闘家の物語ではなく、誇り高き明治の日本人の物語である。そして、そこには平成の日本人が忘れてしまった大切なものを見出すことができる。3回にわたって、この明治人たちの足跡を追う———。

大国ロシアを破った小国の格闘家たちは南米にいた

 明治時代、世界にデビューした日本人が初めて獲得したアイデンティティは「誇り高き格闘する民族」だったことをご存知だろうか。1905年(明治38年)、日露戦争によって大国ロシアを破ったニュースは、広く世界に「白人種を破る黄色人種が現れた」驚きと共に伝えられた。この時、極東の小国・日本は初めて世界の大きな注目を集めた。その時代、やはり「小さい者が大きい者を投げ飛ばす」格闘技の体現者、講道館柔道家も世界を歩いていた。「日本の文化を世界に喧伝する」使命を嘉納治五郎・講道館館長に与えられた若者たちは、各地で熱狂的な歓迎を受けていた。たとえばアマゾンの奥地でも、彼らの足跡は今に残されている。

 私はいま、ブラジル・アマゾンに来ている。大西洋に交わるアマゾン川河口から約2000km上流の街、マナウス。地平線から巨大な入道雲が天をついて伸び上がり、季節は雨季から乾季に移ろうとしているところだ。

 今年2月、この街に住むブラジル人柔道家から日本の講道館に届いた1通のファックスが、この取材旅行への誘いだった。

「今世紀初頭、講道館の若者5名が当地を訪ね、道場を開いた記録が見つかりました。北ブラジルの柔道史はマナウスから始まったということの証拠になると思います———」

 添付された写真には、柔道衣を着て胸を張る見なれた男の姿もあった。前田光代=コンデ・コマ。かつて明治時代に柔道を世界に広めるためにアメリカを振り出しに世界を歴訪し、各地で異種格闘技戦を展開して2000試合無敗と言われた伝説の男。日本に残る資料には、晩年アマゾン河口の街ベレンに留まり、1929年に始まる日本人開拓移民の「父」として私設領事の役割をはたし、1941年にこの地に没したことが記録されている。さらに昨今の格闘技ファンの間では、ブラジルから登場してきた最強の格闘技集団「グレイシー柔術」の始祖が実は前田だったという事実が明らかになり「どんな男だったのか」「何故ブラジルから柔術が?」という興味が募って来てもいる。

 ファックスを手にした時は、ちょうど足掛け3年の歳月を費やしてこの男の生涯を辿った拙著「ライオンの夢」(小学館刊)がまさに出版されようとするタイミングでもあった。けれどこれまでの取材では前田の活動拠点はベレンであり、さらに上流のマナウスにその資料が残っていたとは初耳だった。しかも送られてきた資料を見ると、前田だけでなく佐竹、大蔵、清水、ラクといった柔道家がこの時期マナウスに集まり、一種の梁山泊を形成して現地の人々に熱狂的に迎えられたことが伝わってくる。

 この時代、すでに「笠戸丸」に乗った南米移民はサンパウロ、リオデジャネイロ等の南ブラジルに入植していた。けれどアマゾンは、当時の日本人には未知の大地だったはずだ。19世紀末に突如として起こったアマゾンのゴム景気も1900年代に入るとすでに終息に向かい、イギリス、オランダ等のヨーロッパ資本も撤退していった頃だ。

 何故この時期に地球の裏側から日本の若者が5人もこの街に集まったのか。熱狂的な歓迎を受けたのは何故なのか。一瞬梁山泊を形成した若者たちは、その後どんな人生を辿っていったのか。あれこれ思いを膨らませながら成田を飛び立ち、アマゾンの大地に降り立つことになった。

日本人の格闘模範演技に

拍手は鳴り止まず

 空港で歓迎してくれたファックスの主、リルド氏の案内で早速市内の歴史資料館を訪ねてみると———。確かに1915年(大正4年)12月18日の日付の『OTEMPO』紙に、前田ら5人の若者の息吹が記されていた。「日本人は何をなすのか」というタイトルの下に、長文の記事が掲載されている。

「12月18日 今日パラ州(隣州)からの定期船に乗って柔術の日本人格闘家がやってくる。彼らは有名な劇場『ポリテアーマ』の観客に喜びをもたらすために来るのである。この軍団は、柔術世界チャンピオンであるコンデ・コマ(コマ伯爵)に率いられ、東洋の衣服を身に纏い、自動車に乗ってパレードする予定である。軍団の初公演は20日(月曜)に行われる」

 さらにページを捲ると連日の街の熱狂ぶりが掲載されている。

「12月19日 昨日コマ伯爵によって見事に統率された高名な日本人格闘家集団が到着した」

「12月20日 大劇場ポリテアーマで行なわれる今夜公開されるショーは間違いなく大成功となり劇場は超満員になると思われる。今日公演するのは5人の日本人格闘家たちで、彼らは数日前からマナウスに滞在し、すでに大人気を博している。この人気者の日本人たちの演目はこの州都において全くの初公開であり、これまで訪れたショーの中で最もセンセーショナルなものである。(中略)メンバーはサタケ(ニューヨーク・チャンピオン)オオクラ(チリ・チャンピオン)シミズ(アルゼンチン・チャンピオン)ラク(元ペルー軍教官)」

 この後、記事は軍団の演目の紹介に移る。

「①軍団の紹介、②コマ伯爵による禁じ手の形の演技、③コマ伯爵とオオクラの実演による護身術。この場面ではコマ伯爵が次のような危険な状況やありがちな攻撃に対して柔術を使って身を守る。パンチによる攻撃、ナイフによる攻撃、棒による攻撃、後ろからの不意打ち、首締め、胴絞め、ボクシングによる攻撃。④観客の中で軍団に挑戦したい人は誰でも挑戦できる、⑤アルゼンチン・チャンピオン、シミズと元ペルー軍教官ラクによる最初のセンセーショナルな試合。全ての戦いはきっちりと全く良俗を乱すことのないような衣服を着て行なわれる」

 こうした記事に煽られて、1915年12月20日、約2000名収容のポリテアーマ劇場は満員の観客で埋まった。幕が上がると、観客たちは初めて目にする小柄な日本人の格闘家に興奮して立ち上がり、拍手は鳴り止まなかった。翌日の新聞が伝えている。

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