Ⅱ 神聖演劇
<観客>という観念を本当に理解するのはまことにむずかしい。観客とはそこに存在しながら存在しないもの、無視されながら不可欠なものだ。俳優の仕事は決して観客のためのものではなく、しかしつねに観客のためのものだ。見物人とは、忘れらるべき、そしてたえず意識さるべき相棒なのだ。身ぶりとは陳述であり、表現であり。伝達であり、孤独な私的告白である。――それはアルトーの言葉を借りれば、つねに、燃えさかる炎による信号である――だが、そのことはとりもなおさず、それが相手に到達したとたんに経験が分かちもたれるという意味にほかならないのだ。
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俳優にとっては、自分自身が仕事の領域である。これは、画家や音楽家の場合よりもさらに豊かな領域だ。なぜなら俳優は自己のあらゆる側面を掘り起こし、探求しなければならないからだ。自分の手、目、耳、心、それらを彼は研究し、それらでもって彼は研究する。とすれば、演ずるということは生涯の仕事だ。不断に変化する苦しい条件のもとでの稽古と、苛烈な句読点のごとくそれを区切る公演とを通して、俳優はある役にみずからを<滲透>せしめる。初めのうちは、俳優の心身のすべてがこれを妨害する障壁となる。だが、たえざる訓練によって、彼は肉体と精神を統御する技術を学びとり、障壁は崩れていく。役による<自己滲透>は、また<露出>ということでもある。俳優は自分をありのままにさらけだすことをためらってはならぬ。なぜなら、役の秘密を知るためには自分自身を開き、自分自身の秘密を暴露しなければならぬ、ということを悟るはずだからだ。そのため、演ずるという行為は生贄を供える行為、人がふつう隠しておきたいと思うことを犠牲として差し出す行為となる――彼が観客へ捧げるのはこの犠牲なのだ。
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数世紀にわたって、演劇は俳優をかなたの高い壇の上に遠ざけ、額縁に入れ、飾りたて、ライトを浴びせ、厚化粧させ、高い踵の靴をはかせようとしてきた。その意図は無知な大衆に、俳優とは神聖なのだ、彼の芸は聖なるものだ、と信じこませようというところにあった。はたしてこの姿勢は聖なるものへの崇拝を意味したのだろうか?それとも、もしライトをあまり強くしたり、俳優にあまりに近々と接したりすると、何かがばれてしまうのではないか、そんな恐れが背後にあったのだろうか?今日、わたしたちは贋物をばらすことはやってのけた。しかし、神聖な演劇はいまだにわたしたちの手もとにはなく、探しつづけなければならぬものだということを、わたしたちは改めて思い知りつつある。さて、それをどこに探したらいいのか?雲の中か、それとも地面の上か?
ピーター・ブルック『なにもない空間』晶文社、1971