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メディアが報じないウクライナ戦争の裏側① ~2014年2月のマイダン革命~

2022年2月24日、ロシアがウクライナに侵攻を開始したことで全面戦争が勃発した。欧米諸国はロシアの軍事侵攻に強烈に反発し、海外資産の凍結と徹底的な経済制裁を行うと同時に、ウクライナには戦争継続に必要な資金・武器・弾薬を供与し続けている。

メディアの論調は開戦直後から一貫して「領土拡大の野心を抱く狂人プーチンによる蛮行を許すな」、「極悪非道なロシアから弱小国ウクライナを守ることが正義である」といったウクライナに極端に肩入れした報道ばかりである。我々はずっと<ロシア=悪・ウクライナ=正義>という一方的な話だけを聞かされ続けている。

アメリカ民主党に隷従した岸田政権は、現在判明しているだけでも1.7兆円という莫大な金額をウクライナ支援に充てている。岸田政権はバイデン民主党に指示されるがまま、日本国民の税金を外国に配り続けた歴代屈指の売国政権であった。

たしかに我が国にとってロシアは「油断できない相手」、「信用できない隣国」ではあるが、北方領土問題を棚上げにしてでも対峙すべき相手であろうか?またウクライナはそこまでして支援すべき国なのだろうか?軍事侵攻を開始したロシアだけが一方的に悪いのだろうか?

ロシアとウクライナの間に起きた歴史を細かく観察してみれば、メディアが報じる姿とはまったく違う「本当のウクライナ戦争」が見えてくるだろう。

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1.2010年2月 ヤヌコヴィッチ大統領の誕生

2022年にウクライナ戦争が勃発した遠因は、2014年2月にウクライナで起きた尊厳の革命 ( Revolution of Dignity )、通称 マイダン革命 に遡る。

マイダン革命とは、ロシアに親和的な大統領ヤヌコヴィッチ政権が反政府デモ活動によって打倒された政変(クーデター)である。

ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ ( Viktor Yanukovych )
ヴィクトル・ヤヌコヴィッチ大統領

ロシアとの国境付近のドネツク出身のヤヌコヴィッチは、2010年2月7日に実施された大統領選挙でティモシェンコ首相に勝利し、2月25日に第4代ウクライナ大統領に就任した。

ウクライナ東部ドネツク州
ユーリヤ・ティモシェンコ首相

2.2010年4月 ハリコフ合意

ヤヌコヴィッチは大統領就任直後の2010年4月21日、ロシアのメドヴェージェフ大統領ハリコフで会談し、クリミア半島セヴァストポリ軍港におけるロシアの黒海艦隊の駐留を、2017年からさらに25年延長して2042年まで認める協定に署名した。(ハリコフ合意

ウクライナ東部ハリコフ州
2010年4月21日 ハリコフ合意
2010年4月21日 ハリコフ合意

3.2013年11月 ユーロマイダン(マイダン蜂起)

2013年11月、ウクライナが欧州連合(EU)に接近しすぎることを警戒するロシアからの圧力を受けたヤヌコヴィッチは、調印目前だったウクライナとEUの政治貿易協定への署名延期を決定した。

11月21日、これに激怒した親欧米派の野党勢力は、首都キエフのマイダン独立広場において、ヤヌコヴィッチの弾劾と総選挙を求める大規模デモを起こした。(ユーロマイダン・マイダン蜂起

マイダン広場に集まる民衆

ヤヌコヴィッチは、過激派鎮圧と治安維持のためにベルクト特殊警察部隊の動員を決定したが、ベルクト警察隊とデモ隊との間に武力衝突が発生したことで、抗議活動は激化していった。

ベルクト特殊警察部隊

4.2014年2月 尊厳の革命・マイダン革命

2014年2月18日~20日、正体不明の武装勢力がマイダン広場の民衆を上空から狙撃するという事件が発生し、デモ参加者とベルクト警官隊の100人以上が死亡する大惨事となった。検察の発表によれば、ユーロマイダンにおいて2,442人の負傷者が発生したと言われている。

2014年2月21日、ヤヌコヴィッチは「早期選挙の実施」と「ベルクト警察隊の撤収」などを交換条件に、野党勢力に「デモ隊解散」と「武装解除」を要求する「政治危機の解決に関する合意」を締結した。
しかしながら、野党勢力の一部過激派はこの合意を受け入れず武力闘争を再開して政府の重要施設を占拠した。

翌2月22日、進退極まったヤヌコヴィッチ大統領がロシアに逃亡したことで、ウクライナの親ロシア政権は崩壊することなった。

【②に続く】

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