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国際金融資本の知られざる歴史⑥ ~パリ家・鉄道王ジェームス~
【前回⑤の内容】
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1817年 ロチルド・フレール銀行の設立
1811年3月、父マイアー・アムシェル・ロスチャイルドの命令に従って、若干19歳でパリに移住した五男のジェームスは、当初フランス語も満足に話せなかったが、1814年にはロンドンの兄ネイサンが、スペイン独立戦争でナポレオン軍と交戦していたウェリントン公爵の下まで金塊を輸送するにあたって、パリ市内の情報操作を行って支援した。

フランスは、ナポレオン皇帝の追放後、1814年にパリ入城を果たしたルイ18世によってブルボン王朝が復活したが、戦勝国4ヵ国(イギリス・オーストリア帝国・プロイセン王国・ロシア帝国)から第2次パリ条約(1815年)に基づいて「総額7億フラン」という巨額の賠償金の支払を命じられた。
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1817年、ジェームス(25歳)は「ロチルド・フレール銀行」を設立して、追放先から続々とフランスに帰還した貴族たちを顧客に取り込むとともに、国王ルイ18世に500万フランを提供して信頼を勝ち取り、ブルボン朝が発行する公債を取り扱って、ロチルド銀行を大きく成長させた。

また1824年(32歳)には、次兄ザロモンの長女ベティ(19歳)と結婚した。

1830年 ルイ・フィリップ王との蜜月
1830年に起きた7月革命によってブルボン王朝が倒され、ブルジョワジーたちに推されて、オルレアン朝のルイ・フィリップ(57歳)が王位に就いた。

ジェームス(38歳)は新たに国王となったルイ・フィリップに近づき、親密な関係を構築した。

ルイ・フィリップ王は、ロチルド銀行にフランス国債を独占的に発行させ、さらには自身の個人資産を管理させるほど、ジェームスに信頼を寄せた。
またジェームスは、ルイ・フィリップ王から「レジオンドヌール勲章」のオフィシエ(Officier・将校)の地位も与えられている。

そして1830年(38歳)に、ベルギーにおいて「オランダからの独立戦争」が発生し、ベルギーの独立を支援するフランスと大陸列強国との間に不穏な空気が流れると、ジェームスは「ロチルド銀行は戦争のためには一銭も出さない」と宣言して大陸列強国を牽制した。

この結果、オランダ支援のために軍隊を派遣する国はなく、ベルギー独立を支援する形となった。もはや列強国といえども、ロスチャイルド財閥の財政支援なしでは自由に戦争を起こすこともできなくなった出来事と言える。
そしてジェームスは、ベルギー最大の財閥「ソシエテ・ジェネラル・ド・ベルギー」からの依頼によって、1834年(41歳)からサンブル=オワーズ運河の建設事業にも投資しており、その管理会社の社長にも就任している。

この運河は、パリ市民にベルギー産の石炭を届けるために、サンブル渓谷とオワーズ渓谷を結ぶ全長71,000kmにおよぶ超巨大運河であり、その管理会社はパリ証券取引所に最初に上場した企業の1つとなっている。

1836年 ロスチャイルド財閥の3代目総帥
1836年にロンドンの兄ネイサンが死去すると、ジェームス(43歳)はロスチャイルド財閥の3代目総帥となった。ジェームスはこの頃から鉄道事業に熱心に投資を行うようになり、のちに「鉄道王」と呼ばれるようになった。
1837年(44歳)には、フランス初の旅客鉄道である「パリ=サンジェルマン鉄道線」に出資し、1839年(46歳)には「パリ=ベルサイユ鉄道線」の建設事業にも注力している。

1846年(53歳)には「フランス北部鉄道会社」を設立して、生涯その社長を務めている。同社はベルギーやイギリスとフランスの鉄道交通網を独占して高い収益をあげた。

そしてジェームスは、ルイ・フィリップ王の庇護の下、 国王と並ぶフランスで最も裕福な人物となり、1847年(54歳)の時点で「4,000万フラン」という莫大な資産を所有する大富豪となった。
1855年 フランス銀行理事に就任
1800年、ナポレオン皇帝によって設立された「フランス銀行」は、イギリスのイングランド銀行を参考とした、通貨発行権を持つ「民間銀行」であり、その最大株主はナポレオン自身であった。

ナポレオンの庇護を受けて発展したフランス銀行は、1803年に「パリ地域における独占的な通貨発行権」を与えられ、1806年にはフランス政府が総裁1名と副総裁2名の任命権を握る「国家的な銀行」となった。
1825年にイギリスで起きた金融恐慌では、ネイサンらロスチャイルド家がイングランド銀行に「恩」を売り付けるために、フランス銀行は200 万ポンド相当の金塊を融通している。
1848年に2月革命が起きると、フランス銀行の「通貨発行の独占権」は全土に拡大され、フランス銀行が発行する紙幣が「法定通貨」となった。

ジェームスは、フランス国籍を取得せずに生涯フランクフルト国籍を守り続けたため、フランス銀行の15人の理事に就くことはできなかったが、1855年には長男アルフォンス(28歳)がその座につき、1905年に死去するまでその職を務めた。アルフォンスの長男エドゥアールも理事の座を引き継いだ。
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1848年 フランス2月革命とペレール兄弟との闘い
1848年に2月革命によって共和制となったフランスは、ルイ・フィリップ王が追放されてナポレオン皇帝の甥のルイ・ナポレオンが大統領に就任した。
そして1852年、ルイ・ナポレオンは議会に対するクーデターを起こし、独裁権力を掌握して「皇帝ナポレオン3世」を名乗って、第二帝政を開始した。

ナポレオン3世は、ジェームスのライバルであったユダヤ金融業者のアシーユ・フールを財務大臣として重用した。

そして、財務大臣フールの庇護を受けたユダヤ金融業者のペレール兄弟が投資銀行「クレディ・モビリエ」を設立して以降、ロチルド銀行とロスチャイルド財閥はクレディ・モビリエと激しく競争することとなった。

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ペレール兄弟のクレディ・モビリエ銀行は中流資本家達から資金を募って、大陸各地の大規模プロジェクトに積極果敢に投資を行った。
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クレディ・モビリエ銀行は、ザロモンの長男アンゼルムが1855年に設立したクレディタンシュタルトとオーストリアの国有鉄道を巡って激しく争った。
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ペレール兄弟のクレディ・モビリエは、手当たり次第に無謀な投資を行った結果、1860年頃には衰退してゆき、皇帝ナポレオン3世と財務大臣フールは態度を軟化させて、ロチルド銀行と和解を図り、徐々に頼るようになっていった。
そして1866年の普墺戦争でオーストリア帝国がプロイセン王国に完敗すると、クレディ・モビリエは翌年1867年に倒産することとなった。
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ちなみに1864年には、ペレール兄弟のクレディ・モビリエに対抗するためにいくつかの銀行がシンジゲートを組んで「ソシエテ・ジェネラル」が設立されている。

ソシエテ・ジェネラル銀行は、現代ではフランスのメガバンクの1つとなっており、ジェームスのロチルド銀行は出資こそしていないが、フランス銀行の理事であった長男アルフォンス(37歳)が監査役として参加している。
1868年 鉄道王ジェームスの死
1868年、ジェームス(76歳)はブドウ園シャトー・ラフィットを購入した。
1853年に、1人娘シャーロットと結婚してパリに移住してきた義理の息子ナサニエル(ネイサンの三男)が、シャトー・ムートンを買い取って大きな利益をあげたことに驚いて以来の念願であった。
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ジェームスはその3か月後に76歳で死去した。義息ナサニエルによると、ジェームスの葬儀には参列者6,000人が出席し、4,000人が哀悼の意を述べた。そして市内は、偉大な銀行家ジェームスに敬意を表する何千人のパリ市民で埋め尽くされた、と言う。
ジェームスの設立したロチルド銀行の資本金は、1815年の設立当初は5万ポンドだったが、1852年には354万ポンドとなり、ジェームスの死後わずか10年後の1878年には1,691万ポンドにまで増加した。
ジェームスが残した資産は6億フラン以上と言われ、ロチルド銀行の資本金は、他のフランス主要銀行すべてを合計した金額より大きかったという。
ロチルド銀行と鉄道会社を始めとする各事業会社は、長男アルフォンス(41歳)と次男ギュスターヴ(39歳)に引き継がれた。


四男エドモンはビジネスに関心を示さなかったが、晩年にはシオニズム運動の強力な支援者となり、イスラエルの建国に重要な役割を果たしている。

この後、ロンドン家とパリ家の後継者達が、世界各地に派遣した代理人を通して、日本を含めた世界各国の歴史を動かしてゆくことになる
【⑦に続く】
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