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国際金融資本の知られざる歴史⑧ ~ロスチャイルド家の代理人その2~
世界に動乱が起きるとき、かならずその背後では巨額の利益を貪る国際金融資本が暗躍している。
メディア・情報通信・軍需産業・医薬産業などのあらゆる産業に手を伸ばし、資源とエネルギーを独占し、通貨発行権を手中に収めて、世界の金融取引を牛耳る国際金融資本の実態を理解しなければ、いま現在起きている出来事を正確に読み解くことは不可能である。
その国際金融資本の歴史は、ユダヤ王と呼ばれたロスチャイルド一族から始まった。
(前回の内容)
スペインにおける代理人 ダニエル・ワイスワイラー
1825年の金融恐慌をきっかけにイングランド銀行を手中に収めて以降、ロスチャイルド家は、金本位制において通貨の裏付け資産となる金塊(ゴールド)を独占するために水銀鉱山の独占に乗り出した。当時の水銀は、採掘した金鉱石から「金塊(ゴールド)」を取り出すために必要不可欠であった。
1831年、ウィーン家ザロモンがメッテルニヒの働きかけたことで、ロスチャイルド家はオーストリア帝国領内(現スロベニア)のイドリア水銀鉱山を手にした。
そして1835年には、スペインで起きた内戦(第一次カルリスタ戦争 1833年~1840年)をきっかけに、ロンドンのロスチャイルド家がスペイン王室に大金を支払ってアルマデン鉱山を無期限で借り受ける権利を獲得した。
※その後スペイン政府は鉱山返却を要求して1863年に取り戻している。
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ロスチャイルド家は、世界中の水銀を独占することに成功し、水銀の価格を2~3倍に吊り上げて莫大な利益を稼ぎ出した。この独占状態は、アメリカのカリフォルニア州のニュー・アルマデン鉱山で採掘が始まるまで続いた。
このスペインのアルマデン鉱山の権利獲得には、フランクフルトのロスチャイルド銀行で修行したダニエル・ワイスワイラーが、マドリードにおける「代理人」として大きく貢献している。
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1895年に、ダニエルの兄レオポルドの孫娘マチルドが、パリ家のアンリ(ネイサンとジェームズの曾孫)と結婚したことで、このワイスワイラー家もロスチャイルド家の閨閥となっている。
![ネイサンとジェームスの曾孫でパリ家のアンリ・ロスチャイルド(1872年 - 1947年)](https://assets.st-note.com/img/1738925258-W5i7NfXP06kqyB8VMEUdAvz1.png)
![マチルド・ゾフィ・アンリエット・ワイスワイラー(1874年 - 1926年)](https://assets.st-note.com/img/1738925311-YSCMEO7sRx5gGbDklJa1HPZh.png)
スペインにおける代理人 イグナシオ・バウアー
さらに1848年には、ウィーンのロスチャイルド銀行からイグナシオ・バウアーが派遣されて、マドリードの「代理人」に追加された。
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イグナシオ・バウアーは、パリ家ジェームスの仲介によって、1864年のオーストリア出身でイタリア・トリエスタで保険会社を経営していたユダヤ商人モーパーゴの娘アイーダと結婚している。このモーパーゴもロスチャイルド家の代理人の1人である。
1856年には、ワイスワイラーとバウアーの2人の尽力により「マドリード・サラゴサ・アリカンテ鉄道(MZA)」が設立され、その取締役として、その後の発展に重要な役割を果たした。
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さらに、1873年には、ロンドンとパリの2つロスチャイルド家銀行が、スペイン国営のリオティント鉱山を買収する際にも、ワイスワイラーとバウアーは活躍している。
なお、リオティント鉱山の買収には、ロスチャイルド家の代理人「ジャーディン・マセソン商会」の設立者ジェームズ・マセソンの甥ヒュー・マセソンも資本参加している。
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買収された時点では赤字続きだったリオティント鉱山は、ロスチャイルドグループの手によってリストラが行われて再建され、世界有数の鉱業・資源分野の多国籍企業として現在も存続している。
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南アフリカにおける代理人 セシル・ローズ
南アフリカでロスチャイルド家の代理人となったのは、後年にケープ植民地の首相となってローデシアを設立したセシル・ローズである。
![ケープ植民地首相 セシル・ローズ(1853年 - 1902年)](https://assets.st-note.com/img/1739001715-inaIvL7ub8FkKcCVMTzpPql9.png)
イギリス出身のセシル・ローズは、生まれつき病弱だったため、彼の健康を心配した両親により、17歳(1870年)のときに、8歳年上の兄ハーバートが綿花事業を行っていた南アフリカ(ケープ植民地)に送られた。
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ちょうどその頃は、デビア兄弟が所有するキンバリー鉱山でダイヤモンドが発見されてダイヤモンド・ラッシュが始まった時期であり、ローズ兄弟も1871年にキンバリーに移り住んでダイヤモンド産業に参戦することにした。
このローズ兄弟に出資し、ダイヤモンド鉱山の探索と採掘を支援したのが、ロンドン家のライオネルとその息子ナサニエルである。
![ロンドン家3代目当主 ナサニエル・メイヤー・ロスチャイルド男爵(1840年 - 1915年)](https://assets.st-note.com/img/1739016464-BAl9rJbuiQazxg0XKh1DFIw4.png?width=1200)
ロスチャイルドの資金援助と政治的援助を受けたセシル・ローズは、ダイヤモンド鉱山を組織的に買収して統合を推し進め、1888年には「デビアス」社を設立した。この時のデビアスの筆頭株主はナサニエルであり、第2位はセシル・ローズである。
![1888年にセシル・ローズが設立したダイヤモンド産業専門企業デビアス社](https://assets.st-note.com/img/1739018495-0GpThsa5znRue6jgik37twlA.png)
デビアス設立と同年の1888年、ビジネスマンとして絶頂期を迎えていたセシル・ローズ(35歳)はなぜか遺言書を書き、「すべての遺産はナサニエルに寄贈する」と明記している。
その後のセシル・ローズとロスチャイルド家については、別途詳述する。
アメリカにおける代理人 オーガスト・ベルモント
1837年、ロンドン家ライオネルとパリ家ジェームスは、スペイン内戦をきっかけに政情不安が生じていたスペイン植民地キューバにおける権益を守るために、オーガスト・ベルモントを代理人として派遣することに決定した。
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ベルモントは7歳の時にフランクフルトに移住したユダヤ人であり、1828年(15歳)からフランクフルトのロスチャイルド銀行で働き始め、1832年頃に秘書官に昇進してからはドイツ国外にも派遣されるようになっていた。
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キューバへ向かう途中に寄港したニューヨーク(NY)において、1837年の金融恐慌によって、ロスチャイルド家の米国代理店が多額の負債を抱えて倒産したことを知ったベルモント(24歳)は、独自の判断でキューバ行きを延期し、ロスチャイルド家の権益を守るためにNYに残ることを決断し、ベルモントは、ウォール街78番地に小さな部屋を借りて、オーガスト・ベルモント商会を設立した。
※1837年にアメリカで金融恐慌が発生した経緯については④を参照のこと
当初、ベルモントがキューバへ向かわずNYに残ると判断したことに対し、パリ家ジェームスは「彼は愚かな若者だ。このような馬鹿は厳しく躾ける必要がある」と激怒したものの、ベルモントがロスチャイルド家のためによく働き多額の利益を産み出すようになると、ベルモントを「米国における永久代理人」として正式に認めた。
ベルモントは、NYに到着してからわずか3年足らず、26歳という若さで10万ドルの個人資産を築き、NYの最も裕福な人物、米国で最も重要な3人に数えられる銀行家に成長した。
1844年にはアメリカ市民として帰化し、政治活動オーストリア帝国のNY駐在の総領事となっている。
1849年頃、ベルモントは、後にパリ家2代目となるアルフォンス(ジェームスの長男)のアメリカ修行中の指導役を務めている。
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また、1853年にアメリカ東インド艦隊の司令長官として江戸幕府に開国を迫るマシュー・ペリーの娘キャロライン・ペリーと1849年に結婚している。
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~ベルモントはペリーの娘キャロラインと1849年に結婚~
オーガスト・ベルモント・ロスチャイルド家・明治維新の繋がりについては、ジャーディン・マセソン商会のウィリアム・ケズウィックも含めて、別途詳述する。
⑨に続く