国際金融資本の知られざる歴史③ ~イングランド銀行とロスチャイルド家~
世界に動乱が起きるとき、かならずその背後では巨額の利益を貪る国際金融資本が暗躍している。
メディア・情報通信・軍需産業・医薬産業などのあらゆる産業に手を伸ばし、資源とエネルギーを独占し、通貨発行権を手中に収めて、世界の金融取引を牛耳る国際金融資本の実態を理解しなければ、いま現在起きている出来事を正確に読み解くことは不可能である。
その国際金融資本の歴史は、ユダヤ王と呼ばれたロスチャイルド一族から始まった。
(前回の内容)
2代目当主 ネイサン・ロスチャイルド(2)
1825年 イングランド銀行を手中に収める
ロンドンのシティーに本店を置くイングランド銀行は、イギリス政府に貸付を行うことを目的に、1694年にユグノー(フランスにおけるプロテスタント)の資本家が設立した民間の商業銀行であり、政府融資の見返りとして、勅許状によって「銀行券を発行する特権」を認められて、ロンドン地域における通貨発行権を独占していた。
またイングランド銀行は、政府融資を通じて東インド会社(インド)・ハドソン湾会社(カナダ)・南海会社(南米・西インド諸島)などのイギリスの植民地経営にも深く関与する政府御用達の銀行ではあったものの、その他の各地方銀行においても独自通貨の発行が許されており、この当時はまだ「中央銀行」という扱いではなかった。
1825年、産業革命によって生じた過剰生産に加え、ラテンアメリカにおける架空国Poyaisを巡る詐欺事件によって投機バブルが崩壊したことをきっかけに、イギリスを中心にヨーロッパ全土に金融恐慌(1825年)が発生した。
イギリスでは、1年間で倒産件数は2倍以上に増え、ロンドンの銀行6つと60の地方銀行が破綻に追い込まれる事態となり、これを受けて政府はイングランド銀行に支店開設の許可を与えて、破綻した銀行の代わりとさせた。
1826年~29年の間に11支店を開設したイングランド銀行は、これ以降、「銀行の銀行」として、自らが発行する銀行券の広範な利用を推進してゆくようになった。
このイングランド銀行に目を付けたネイサン率いるロスチャイルド財閥は、短期ローンを利用して毎日のように兌換して金塊を引き出す一方で、それまで貸し出した金塊を回収して、フランス銀行などからイングランド銀行に金塊を補填させ、取り付け騒ぎまで起きていたイングランド銀行を救済して恩を売り付けた。
相手を窮地に追い詰めた後に手を差し伸べるというやり方で、ネイサンはイングランド銀行の株式を手に入れ、イギリスの「通貨発行権」を掌握した。
これ以降、イングランド銀行の総裁や理事は、ロスチャイルド家の縁のある人物によって占められてゆく。1868年にはネイサンの孫アルフレッドが、同行の理事を20年間に渡り務めている。
この成功体験により『各国の通貨発行権を握り、金本位制の中でゴールドの流通量を意図的にコントロールすることで、金融と経済を操作して富を簒奪する』というロスチャイルド家の世界戦略のベースが完成した。
後日ネイサンは、自身が主催したパーティーの席で「太陽が沈むことのない大英帝国の王位にどんな操り人形が座ろうが構わない。英国の通貨を発行し管理する者こそが大英帝国を支配するのであり、私はいま英国の通貨を管理している」と語っている。
アメリカと大陸を繋ぐフリーメイソンのネットワーク
イギリス植民地であったアメリカは、1775年から独立戦争を戦った結果、1783年のパリ条約によって13植民地の独立が認められて、アメリカ合衆国として独立した。
植民地時代のアメリカは、イギリスが搾取するために厳しい税制や法律を課していたため、正規ルートの貿易では商売が立ち行かない状態となっていたため、密貿易が盛んに行われていた。
もちろん独立戦争中は、表面上イギリスへの輸出は禁止されていたが、綿花やタバコの密貿易は盛んに行われた。
その密貿易を影から支えたのが、アメリカとヨーロッパ大陸のフリーメイソンのネットワークである。
フリーメイソンとは、石工ギルドを起源とする世界最古の友愛団体であり、貴族・資産家・事業家・銀行家・学識者などの有力者たちがこぞって入会した上流階級層による秘密の社交クラブであり、この繋がりがビジネス上の人脈となり、あるいは諜報ネットワークとなり、隠然たる力を発揮した。
アメリカでは、初代大統領のジョージ・ワシントンをはじめ、エドムンド・ランドルフ、トーマス・ジェファーソン、ベンジャミン・フランクリンなど「建国の父」と呼ばれる人物の多くが、フリーメイソンに入会していた。
ネイサンは、1798年にイギリスに渡って綿製品ビジネスで荒稼ぎしていた頃から、綿花の輸入先だった新興国アメリカに目を付け始め、この地にも地盤を固めることを目論んでいた。
1802年にはネイサンもフリーメイソンに入会しており、後にパリ家のジェームスもフリーメイソンに入会した。
1811年 アメリカ合衆国第一銀行の公認失効
1791年、ワシントン大統領から任命されて初代財務長官となったアレクサンダー・ハミルトンの提言によって、アメリカ合衆国第一銀行が設立されることとなった。
この銀行は、アメリカ初の国立銀行であり、13州が抱えた独立戦争の負債を連邦政府が肩代わりし、アメリカ国内で流通していた50以上の異なる貨幣を1つの標準貨幣(ドル)に統一し、新しく樹立された政府のために資金調達を行って財政を安定化させるという目的で設立された。
合衆国第一銀行は、イングランド銀行を参考とし、民間銀行でありながら、1791年~1811年の「20年間」に期間を区切った更新許可制ではあったものの、アメリカにおける「通貨発行権」を独占的に認められていた。
1811年、合衆国第一銀行は認可の更新期限を迎えたが、トーマス・ジェファーソン大統領と米国議会は、認可更新に反対の姿勢を示していた。実際、この銀行の株式25,000株のうち18,000株は、イギリス人やオランダ人を中心とする外国人が所有者であったことが判明している。
ネイサンはすでに英国政府にも一定の影響力を持つようになっており、アメリカ政府やいくつかの州にも融資している状態であったが、合衆国第一銀行の認可が更新されない可能性があることを聞き、「もし更新が認められなければ、アメリカは最も悲惨な戦争に巻き込まれることになるだろう」と強い不満を述べた、と言われている。
そして米国議会によって認可更新が拒否されると、ネイサンは「あの生意気なアメリカ人に罰を与えろ。アメリカを植民地に戻してやれ」と激怒したと言われている。
1812年 パーシバル暗殺と米英戦争
一方イギリスでは、同年1811年に、国王ジョージ3世の精神病悪化をきっかけに、皇太子のジョージ4世が 摂政王子(リージェント) となった。
ジョージ4世は、真面目で倹約家だった父王ジョージ3世と異なり、若い頃から大酒飲みで、多くの愛人と浮気し、放蕩と豪遊を繰り返して借金漬けだった人物で、弁護士あがりで理想主義者の当時の首相スペンサー・パーシバルとは事あるごとに衝突していた。
またネイサンは、パーシバル首相に「アメリカが領土拡大を目論んでいるので、すぐに軍を送るべし」を主張していたが、ナポレオンとの戦争に注力するパーシバルからは「アメリカに割ける兵はない」と拒否されて大いに失望している。
翌1812年5月11日、首相パーシバルは、国会議事堂の庶民院ロビーにて至近距離から胸部を撃たれて暗殺された。この事件によりパーシバルはイギリスの首相で唯一暗殺された首相となった。
暗殺の犯人はジョン・ベリンガムという商人だったが、真相も判然としないまま、精神異常者として、事件発生からわずか1週間後に絞首刑となった。
そして、パーシバル暗殺事件から1か月後の6月18日、ネイサンが望んだとおり、イギリスとアメリカの間で米英戦争(1812年~1815年)が勃発した。
なおネイサンは、借金漬けのジョージ4世の支援者となることで英国王室に食い込み、その後、英国ロスチャイルド家はジョージ4世の姪ヴィクトリア女王、その第一王子エドワード7世とも深い関係を築いている。
④に続く