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国際金融資本の知られざる歴史⑨ ~アメリカにおける代理人~

【前回⑧の内容】

ロスチャイルド家は世界各地に「代理人」を配置し、世界中に情報ネットワークを構築していった。

代理人」に指名された人物・組織は、ロスチャイルド家から毎月一定額の手数料を受け取る代わりに、指示された商取引を取り纏めたり、ロスチャイルドの看板をフル活用してより有利な取引条件を交渉するなどの役割を担ったほか、滞在現地のビジネス・政治情勢に関わる「最新情報」を定期的に報告する役割を担っていた。

今回は、アメリカにおけるロスチャイルドの代理人について詳述する。

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アメリカにおける代理人 オーガスト・ベルモント

1837年、パリ家のジェームス(45歳)とロンドン家のライオネル(29歳)は、スペインで起きた内戦をきっかけに政情不安が生じたスペイン植民地のキューバにおける権益を守るため、「オーガスト・ベルモント」を代理人としてハバナに派遣することにした。

ニューヨークとキューバの位置関係図
ニューヨークとキューバの位置関係図

ベルモントは7歳の時にフランクフルトに移住したユダヤ人である。1828年(15歳)からM.A.ロスチャイルド銀行に丁稚奉公に出て、4年後の1832年(19歳)には秘書官に出世して、ドイツ国外にも派遣されるようになった。

アメリカにおける代理人 オーガスト・ベルモント(1813年 - 1890年)
アメリカにおける代理人 オーガスト・ベルモント(1813年 - 1890年)

キューバに向かう途中で立ち寄ったニューヨーク(NY)において、1837年に起きた金融恐慌により、ロスチャイルド家の代理店が多額の負債を抱えて倒産したことを知ったベルモント(24歳)は、独自の判断でキューバ行きを延期し、ロスチャイルド家の権益を守るためにNYに残ることを決めて、ウォール街78番地に小さな部屋を借りて「オーガスト・ベルモント商会」を設立した。
※1837年にアメリカで金融恐慌が発生した経緯については④を参照のこと

当初ジェームスは、キューバへ向かわずNYに残ると判断したベルモントに対しては「彼は愚かな若者だ。このような馬鹿は厳しく躾ける必要がある」と激怒していたが、ベルモントがロスチャイルド家のためによく働いて、多額の利益をもたらすと、彼を「米国における永久代理人」として正式に認めるようになった。

1840年、ベルモントはNYに到着してからわずか3年足らずの26歳という若さで「10万ドルの個人資産」を築き、NYで最も裕福な人物、アメリカで最も重要な3人に数えられる銀行家にまで成長した。

1844年(30歳)にアメリカ市民として帰化して以降、生涯を通じて「アメリカ民主党員」として政治活動にも積極的に参加している。

また同年1844年、オーストリア帝国から「ニューヨーク駐在総領事」の地位を与えられており、これは1820年にネイサンが、1821年にジェームスが与えられた「ヨーロッパ貴族における垂涎の名誉職」であった。ベルモントがもたらすアメリカ情報が、大陸諸国にとってそれだけ有益なものであったことを如実に示している。

アメリカとメキシコの間で起きた米墨戦争(1845年~1848年)の後処理を巡って、ベルモントは、ロスチャイルド家の意向に反してアメリカ政府に対して肩入れする行為を行ったため、両者の関係はいくぶんか悪化した。

アメリカとメキシコが戦った米墨戦争(1845年~1848年)

1849年、ジェームスの長男アルフォンス(22歳、後にパリ家2代目)がアメリカにビジネス留学にやってきた際に指導役を務めたベルモント(35歳)は「自分が自分の後継者を訓練しているのではないか?」と疑心暗鬼になったという。

パリ家2代目 アルフォンス・ジェームス・ド・ロチルド(1827年 - 1905年)
パリ家2代目 アルフォンス・ジェームス・ド・ロチルド(1827年 - 1905年)

1849年頃、NY市のユニオン・クラブを通じて、ルイジアナ州民主党の指導者であった大物政治家のジョン・スライデル(56歳)と知り合った。

上級階級層の社交場 ユニオン・クラブ(1836年設立)
上級階級層の社交場 ニューヨークのユニオン・クラブ(1836年設立)
ルイジアナ州民主党議員 ジョン・スライデル(1793年 - 1871年)

そして同年11月7日、ベルモント(35歳)はスライデルの姪 キャロライン・スライドル・ペリー(20歳)と結婚した。以降、スライデルの勧めもあって、ベルモントは本格的にアメリカの政治活動に注力することとなる。

ベルモントの妻 キャロライン・スライドル・ペリー(1829年 - 1892年)

なお、妻キャロラインは、1853年にアメリカ東インド艦隊の司令長官として江戸幕府に開国を迫るマシュー・ペリーの娘であった。ベルモント・ロスチャイルド家と「明治維新」の繋がりについては別途詳述する。

アメリカ東インド艦隊の司令長官 マシュー・ペリー(1794年-1858年)

ベルモントは1860年(46歳)の時、民主党全国委員会の「委員長」に選出され、それまで名誉職でしかなかった「委員長」の地位を、政治的にも選挙的にも重要なポストに変革させている。

アメリカ民主党全国委員会(Democratic National Committee)
アメリカ民主党全国委員会(Democratic National Committee)

また、翌年から始まった「南北戦争(1861年~1865年)」では、ベルモントは、パリ家ロスチャイルドの指示に基づいて「北部」を支援したが、義叔父スライデルとの関係から「南部の債券」も買い漁っており、南北の両方ともを支援していたと言われている。


アメリカにおける秘密の代理人 モルガン家

アメリカの貧しい家庭に生まれたジョージ・ピーボディは、乾物商としてゼロから事業を興した後、1820年代から始まった好景気の波に乗って順調に事業を拡大した。

ジョージ・ピーボディ(1795年 - 1869年)
ジョージ・ピーボディ(1795年 - 1869年)

1827年、アメリカ各州の「交通インフラ投資」のための債券の引受先を探すために初めてイギリスを訪問したピーボディは、1837年にはロンドンに移住して本格的に「銀行業」に参入することとした。

その後30年間はアメリカの鉄道事業に投資を行って大きな成功を収めたが、鉄道ブーム終了に伴って1857年に金融恐慌が発生すると事業倒産の危機に瀕した。

この時、ロスチャイルド家が掌握していたイングランド銀行から「80万ポンドの緊急信用枠」を与えられて窮地を凌いでいる。1857年の恐慌により多くの会社が倒産したが、イングランド銀行から特別な便宜を受けて救済された会社はピーボディ商会だけであった。

ピーボディは生涯独身で子供がいなかったため、すでにアメリカで成功を収めていた銀行家「ジューニアス・スペンサー・モルガン(J.S.モルガン)」を、ピーボディ商会の後継者に指名した。

ジューニアス・スペンサー・モルガン(1813年 - 1890年)
ジューニアス・スペンサー・モルガン(1813年 - 1890年)

J.S.モルガン(51歳)は、1864年にピーボディ(69歳)が引退すると、すべての事業を引き継いで「JSモルガン商会」に改称した。これが後にモルガン・グレンフェル銀行となった。

J.S.モルガン商会を起源とする、モルガン・グレンフェル銀行(1990年にドイツ銀行に買収された)
J.S.モルガン商会を起源とする、モルガン・グレンフェル銀行
(1990年にドイツ銀行に買収された)

J.S.モルガン(48歳)の息子ジョン・ピアポント・モルガン(24歳)が、ニューヨークで1861年に設立したのが「JPモルガン商会」である。これがJPモルガン・チェース銀行モルガン・スタンレー銀行の源流となった。

ロスチャイルドの秘密の代理人 ジョン・ピアポント・モルガン(1837年 - 1913年)
ロスチャイルドの秘密の代理人 ジョン・ピアポント・モルガン(1837年 - 1913年)
2000年設立 JPモルガン・チェース銀行(J.P.Morgan Chase)
2000年設立 JPモルガン・チェース銀行(J.P.Morgan Chase)
1935年設立 モルガン・スタンレー銀行(Morgan Stanley)
1935年設立 モルガン・スタンレー銀行(Morgan Stanley)

当時ロスチャイルド家には「アメリカの代理人」として、前述のオーガスト・ベルモントがいたが、彼は政治活動に積極的にも参加しており、すでにニューヨークにおいて「ロスチャイルド家の代理人」として有名になってしまっていたことから、まだ誰にも知られていない「秘密の代理人」として、ピーボディとモルガン親子が起用されたと言われている。

1869年以降、J.P.モルガンは次々と鉄道会社を買収して再建していったほか、1892年にはトーマス・エジソンから事業を買収して「ゼネラル・エレクトリック」を設立した。

ゼネラル・エレクトリック(General Electric Company)
ゼネラル・エレクトリック(General Electric Company)

1901年には鉄鋼王アンドリュー・カーネギーから事業を買収して「USスチール」を設立している。

U.S.スチール(The United States Steel Corporation)
U.S.スチール(The United States Steel Corporation)

1907年には、全米の通信事業を独占する「AT&T」を買収した。

AT&T Corporation
AT&T Corporation

そして1910年11月には、モルガンが所有する「ジキル島の超高級クラブハウスにロスチャイルド財閥の関係者たちを集めて、アメリカに中央銀行である「FRB」を設立するために秘密会合を主催している。

超大富豪50人の会員が所有していた、ジョージア州ジキル島のクラブハウス
超大富豪50人の会員が所有していた、ジョージア州ジキル島のクラブハウス


もう1人のアメリカの代理人 ジェイコブ・シフ

ジェイコブ・シフは、フランクフルトのユダヤ人居住区(ゲットー)で、ロスチャイルド家と共に「緑の楯の家」で暮らしていたシフ家の出身である。

フランクフルトの「緑の楯の家」の出身 ジェイコブ・ヘンリー・シフ(1847年 - 1920年)
フランクフルトの「緑の楯の家」の出身 ジェイコブ・ヘンリー・シフ(1847年 - 1920年)

1861年(14歳)からM.A.ロスチャイルド銀行で働いた後、南北戦争の集結直後の1865年8月、ロスチャイルドの代理人としてニューヨークに渡った。

1874年にシフは、ドイツ系ユダヤ人銀行家のアブラハム・クーンから招聘されて「クーン・ローブ商会」に入社することとなり、1875年にはアブラハムの義弟ソロモン・ローブの娘テレーズと結婚した。

クーン・ローブ商会の創業者 アブラハム・クーン(1819年 - 1892年)
クーン・ローブ商会の創業者 アブラハム・クーン(1819年 - 1892年)
クーン・ローブ商会の創業者 ソロモン・ローブ(1828年 - 1903年)
クーン・ローブ商会の創業者 ソロモン・ローブ(1828年 - 1903年)

そして1885年には、頭取としてクーン・ローブ商会を率いることとなり、その後同社を、JPモルガン商会に継ぐ米国第2位の銀行に成長させた。

1867年にニューヨークで設立されたクーン・ローブ商会
1867年にニューヨークで設立されたクーン・ローブ商会

なお、1914年にFRBニューヨーク連銀の初代理事ポール・ウォーバーグも、1895年にソロモン・ローブの娘ニーナと結婚したことで、ウォーバーグとシフは義兄弟となっている。

FRBニューヨーク連銀初代理事 ポール・ウォーバーグ(1868年 - 1932年)~ジェイコブ・シフの義弟・ロスチャイルド家の代理人~
FRBニューヨーク連銀初代理事 ポール・ウォーバーグ(1868年 - 1932年)
~ジェイコブ・シフの義弟・ロスチャイルド家の代理人~

さらに1895年に、ポール・ウォーバーグの弟フェリックスは、シフの1人娘フリーダと結婚している。

シフの1人娘フリーダと結婚した、フェリックス・ウォーバーグ(1871年 - 1937年)

※ロスチャイルド家とウォーバーグ家の繋がりについては②も参照のこと

シフは、鉄道王エドワード・ヘンリー・ハリマンと組んで鉄道事業の再編にも関わり、JPモルガン商会と激しく争った。

アメリカの鉄道王 エドワード・ヘンリー・ハリマン(1848年 - 1909年)

シフは、ウォール街の大物銀行家として、ナショナル・シティ銀行(後のシティ銀行)やウェルズ・ファーゴ銀行などの取締役も務めた。

ナショナル・シティ銀行(National City Corp.)
ナショナル・シティ銀行(National City Corp.)
ウェルズ・ファーゴ(Wells Fargo)
ウェルズ・ファーゴ(Wells Fargo)

シフ率いるクーン・ローブ商会は、ジョン・D・ロックフェラースタンダード石油のメインバンク、財政アドバイザーも務めて、ロックフェラーグループをアメリカの巨大財閥に成長させている。

スタンダード石油の創業者 ジョン・D・ロックフェラー(1839年 - 1937年)
スタンダード石油の創業者 ジョン・D・ロックフェラー(1839年 - 1937年)
スタンダード石油(34社に分割され、現エクソンモービル社の起源となった)

ジェイコブ・シフと日露戦争の関係については、別途記述する

【⑩に続く】

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