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国際金融資本の知られざる歴史⑤ ~フランクフルト家・ウィーン家・ナポリ家~

世界に動乱が起きるとき、かならずその背後では巨額の利益を貪る国際金融資本が暗躍している。

メディア・情報通信・軍需産業・医薬産業などのあらゆる産業に手を伸ばし、資源とエネルギーを独占し、通貨発行権を手中に収めて、世界の金融取引を牛耳る国際金融資本の実態を理解しなければ、いま現在起きている出来事を正確に読み解くことは不可能である。

その国際金融資本の歴史は、ユダヤ王と呼ばれたロスチャイルド一族から始まった。

(前回の内容)


長男アムシェル と フランクフルト本家の歴史

1812年に初代マイアー(68歳)が亡くなると、長男アムシェル(39歳)が、フランクフルト本家を継いで、MA・ロスチャイルド銀行の頭取となった。

フランクフルト家2代目 長男 アムシェル・マイアー・ロスチャイルド 1773年-1855年
フランクフルト家2代目 アムシェル・M・ロスチャイルド 1773年-1855年

アムシェルは、保守的で敬虔なユダヤ教徒であり、野心や独立心はあまり無く、兄弟の中でもっとも用心深く、静かな生活に憧れたと言われている。

弟のネイサンジェームスのような天才的な商才は無かったが、父親が築いたヘッセン選帝侯との関係を維持して、ウィーン会議を経て設立されたドイツ連邦議会(1815年~1866年)において財政官を務めた。

フランクフルトのトゥルン・ウント・タクシス宮殿にあったドイツ連邦議会
フランクフルトのトゥルン・ウント・タクシス宮殿にあったドイツ連邦議会

また、ドイツの中小規模の各州国と良好な関係を築き、1820年~30年にかけてはMA・ロスチャイルド銀行がドイツ語圏における主要な国債発行人となった結果、ドイツの証券金融の中心地はフランクフルトとなった。

現代のフランクフルトは、ドイツにおける「国際金融の中心地」としての地位を維持しており、欧州中央銀行(=ユーロ圏の中央銀行)、ドイツ連邦銀行(=ドイツの中央銀行)、ドイツの4大銀行が本社を構えている。

2019年 「マインハッタン」とも呼ばれるフランクフルト
2019年 「マインハッタン」とも呼ばれるフランクフルト・アム・マイン

1835年(62歳)には、タウヌス鉄道フランクフルトヴィースバーデン間)の建設プロジェクトにMA・ロスチャイルド銀行も資本参加している。

タウヌス鉄道(フランクフルト・ヴィースバーデン間)
フランクフルトのタウヌス駅

1855年にアムシェル(82歳)が無くなると、彼には子供がいなかったため、MA・ロスチャイルド銀行は、ナポリ家カールの長男マイヤー・カール(35歳)と三男ヴィルヘルム・カール (27歳)が共同経営者として引き継いだ。

ナポリ家カールの長男 マイヤー・カール・ロスチャイルド(1820年-1886年)
ナポリ家カールの長男 マイヤー・カール・ロスチャイルド(1820年-1886年)
ナポリ家カールの三男 ヴィルヘルム・カール・ロスチャイルド(1828年-1901年)
ナポリ家カールの三男 ヴィルヘルム・カール・ロスチャイルド(1828年-1901年)

だが、マイヤーヴィルヘルムのどちらも息子がいなかったため、1901年にフランクフルト家は断絶となり、MA・ロスチャイルド銀行も清算された。

次男ザロモン と ウィーン家の歴史

初代マイアーの次男ザロモンは、1819年(45歳)のときにオーストリア帝国ウィーンに派遣され、翌1820年にSM・ロスチャイルド銀行を設立した。

ウィーン家初代 ザロモン・マイアー・ロスチャイルド(1774年-1855年)
ウィーン家初代 ザロモン・M・ロスチャイルド(1774年-1855年)

ザロモンは、陽気で優しく、へりくだることを知っており、ロスチャイルド家を成金として見下す貴族たちとでも人脈や信頼関係を築く能力に長けた、外交官的な存在であった。ネイサンのことをナポレオンに例えて「私のロンドンの弟は最高司令官です。私は部下の元帥に過ぎない」と述べ、ネイサンの才能を認めて、ザロモンは弟の指示に忠実に従った。

ザロモンは、オーストリア帝国メッテルニヒ宰相とその腹心フリードリヒ・ゲンツと懇意になって、オーストリア帝国のいくつもの重要なプロジェクトに融資を行っている。

オーストリア帝国 初代宰相メッテルニヒ(左) と その腹心フリードリヒ・ゲンツ(右)

1836年(62歳)の時に始まったオーストリア初の蒸気鉄道ノルドバーン鉄道の建設プロジェクトでは、SM・ロスチャイルド銀行が中心的な役割を果たして鉄道王と呼ばれるようになっている。

オーストリア初の蒸気鉄道 フェルディナント皇帝-北部鉄道線(ノルドバーン鉄道)

それ他、1833年(59歳)には海運会社オーストリア・ロイドの発起人となり、1843年(69歳)には現チェコ共和国ヴィトコヴィッツ製鉄所を買収して独占所有して、1840年代のオーストリアの産業革命にも貢献している。

ザロモンは慈善事業も積極的に行い、病院の建設や給水設備の設置に莫大な寄付を行ったりして、1843年(69歳)のときには、ユダヤ人で初めてオーストリアの名誉市民権を与えられている。

1848年に、オーストリア帝国革命が起きると、メッテルニヒ宰相も失脚し、同時にザロモン(74歳)も、反ロスチャイルド感情に駆られた暴徒の襲撃から逃げるために国外へと逃亡した。

オーストリア帝国革命当時のウィーン(1848年5月)

その後ザロモンはオーストリアに帰国することなく、1855年、亡命先のパリで81歳で他界した。

そしてSM・ロスチャイルド銀行は、長男のアンゼルム(52歳)に引き継がれた。アンゼルムは、1826年の23歳のときにネイサンの娘シャーロット(19歳)と結婚している。

ウィーン家2代目 アンゼルム・ソロモン・ロスチャイルド(1803年-1874年)

アンゼルムは、オーストリア帝国革命(1848年)で滅亡の危機に瀕したウィーン家を建て直し、1855年には、ハプスブルク帝国の有力銀行となるクレディタンシュタルト銀行(1931年に破産)を設立している。

現在はオーストリア銀行に吸収されたクレディタンシュタルト銀行

SM・ロスチャイルド銀行は、1866年にアンゼルムの息子アルバートが引き継ぎ、1911年にはアルバートの息子ルイ・ナサニエルが引き継いだ。

ウィーン家3代目 アルバート・サロモン・ロスチャイルド(1844年-1911年)
ウィーン家4代目 ルイ・ナサニエル・ロスチャイルド(1882年-1955年)

しかし、1938年にオーストリアがナチスに併合されると、ロスチャイルド家の財産はすべてナチス・ドイツに略奪されてしまい、そのままウィーン家は没落してしまった。

四男カール と ナポリ家の歴史

初代マイアーの四男カールは、1820年にナポリで起きた反乱の鎮圧のためにオーストリア帝国が鎮圧軍を派遣したことを契機にナポリ(両シチリア王国)に派遣され、翌1821年にCMロスチャイルド銀行を設立した。

ナポリ家初代 カール・M・ロスチャイルド(1788年-1855年)
ナポリ家初代 カール・M・ロスチャイルド(1788年-1855年)

カールは、神経質で自分に自信が無く、兄ネイサンの才能に憧れて偶像化する一方で恐れていた。長兄アムシェルの指示に従ってナポリに移住したものの、外国生活には馴染めず「私はビジネスは嫌いで、生きるのに必要な衣類とパンさえあればよい」と言ったとも伝えられている。

カールCMロスチャイルド銀行は、両シチリア王国の元首相で、ナポリ革命後に樹立された新政府の下で財務大臣に就任したルイージ・デ・メディチと深い関係を築き、両シチリア王国の国債を引き受けて成功した。

両シチリア王国 財務大臣 ルイージ・デ・メディチ(1759年-1830年)

カールは、後に初代ベルギー国王となるレオポルド1世を1826年に自身の大邸宅に招待している。また1829年には在フランクフルト・シチリア総領事に任命された。そして1832年には、ユダヤ人ながら、カトリックのローマ教皇グレゴリウス16世から騎士団勲章を受けた。

1831年に初代ベルギー国王となる レオポルド1世(1790年-1865年)
第254代 ローマ教皇 グレゴリウス16世(在位:1831年-1846年)

1855年3月、カールは77歳でナポリで死去した。
彼の財産の7分の1は、兄ネイサンの長男ライオネルと結婚した長女シャーロッテに渡り、残りは3人の息子に均等配分された。

カール・M・ロスチャイルドの子供たち

同1855年12月、長男マイヤー(35歳)と三男ヴィルヘルム (27歳)はフランクフルト本家を継ぐこととなったため、次男アドルフ・カール(32歳)がCMロスチャイルド銀行を引き継いだ。

しかし、アドルフは商才に恵まれず、1861年には銀行を清算し、フランクフルト本家に資産を移して事業から引退し、1868年からはパリに移住した。

こうしてロスチャイルド5家のうち3家は没落していったが、ロンドン家とパリ家はその後も発展し続けて、世界を動かすほどの力を持つようになる。

⑥に続く


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