【短編】 月光

真夜中。
君は静かに腰を下ろした。細くて白い腕で重たい鍵盤の蓋をギィ、っとあける。
それから月明かりに透けた譜面を、指先で静かにめくる。ピアノと向き合ってうつむいた横顔にかかった君の髪が、さらさらと音を立てるようだった。
君は少し微笑んで、たおやかな手を優しく、優しく、鍵盤に置く。ゆったりとピアノから溢れ出すメロディ。
僕たちの一番好きな曲。
二人だけの秘密の時間。
どこまでも静か。


それから僕らは裏庭をかけていく。東の空はベールを上げるみたいに少しずつ白んでいた。夜のほとりにとめてある小さなボートを、僕たちは逃げるように漕ぎ出す。

「綺麗ね。」

「あぁ、そうだね。」

伏せたまつ毛が少し震えている。

「こわい?」

君はまた、少し微笑んで、ただ僕の手を握った。


どこまでも進んでいくボート。
生まれては消えて行く波紋。
どこまでも静か。


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