備忘録#1 駄菓子屋が守っていたもの
なぜか記憶に残ってませんか??
そう、駄菓子屋がまだ存在していた世代の方々は実感があると思いますが
駄菓子屋の事って鮮明に記憶に残っていませんか?
僅かなお金を握りしめ、そこに居たお婆ちゃんにお金を渡して駄菓子を買う
あの経験は、人生で最初の社会との接点だったから記憶に残っているんじゃないですか?
そして、この歳で駄菓子屋を始めるとは夢にも思わなかった僕が正に実感
している駄菓子・駄菓子屋の存在意義。
沢山の子どもが毎日楽しそうに来てくれますし、高齢者の方も懐かしいとか昔は何円だった、酒のつまみに丁度良いみたいな話で会話も弾みます。
そう、駄菓子屋は今でいう多世代交流コミュニティースペースだったんです
それらが失われた事でどんな学びが時代から消え去ったのか少し書き上げてみます。
・初めて自分がお金を使う瞬間
・お金の意味・価値
・計算して買い物する経験
・親以外との大人との接点
・子ども同士の家以外のコミュニティー空間
・他人との出会い・繋がりの経験
・駄菓子屋の独特な匂い・たたずまい
で?これが消え去って何か影響あるの?と思われた方もいるかと思います。
スーパー行けば駄菓子売ってるし、なんなら駄菓子屋より大手の力で安く売れるからむしろお得でしょう?と思うでしょう?
事実その通り!
でも駄菓子屋の意義・意味は数値の話ではなくて、記憶に残る感覚値の話なんですよ、しかも結構大事な。
よく言われる、より良い(表現が難しいが)大人になる為の条件として大切な時期が小学生の低学年の時期。
その時期は意識的な学びではなく、より無意識に近い状態で色々な物を感覚として吸収する時期です。
その認知・認識の量が多いほど大人になった時の判断材料が蓄積されており、より良い成長に繋がると言われてる。
これを踏まえて、先ほど箇条書きにした駄菓子屋からの学びがほぼ無いと考えてみてください。
別に無くてもいいのか?いや、あった方が絶対いいでしょ?
無いよりあったほうが良い物が失われている
そう感じています、その中の一つが駄菓子屋です。
無くたってスーパーでお菓子買える、でも駄菓子屋があればなぜ子供はそこに行きたがるのか??
自分で買う行為、スーパーには無い人との近さ、温かみ、肌で感じる何かがスーパーとは違うから行きたがるんです。
儲からんと誰もが口をそろえて言う駄菓子屋はバブル崩壊後に真っ先に衰退しました。
今は、全盛期の30%以下の駄菓子屋しか残っておらず、更にその半分以上が高齢者が細々とやっている状態。
残念ながら商売として数値化だけで要不要を判断したら、必然的に駄菓子屋は滅びる運命でした。
ただ、僕はこれから必要になると判断しました。
バブルが崩壊し、失われた30年で経済が停滞し、急激な人口減少が始まった日本は国内の諸問題を解決しようとするより、支えようとする方向に舵を切らなきゃいけないと考えてます。
全ての世代が他の世代を支えあう社会。
その為に必要なのは地域ごとにある、相談しやすい民間の居場所であり、そこに行くのではなく行きたいにするのが駄菓子屋なんじゃないかと思って
「えがおの駄菓子屋」を始めました。
駄菓子屋が産み出す空気
駄菓子屋の行きやすさは知ってる世代しか分からないでしょう。そして今の子供には新鮮で、むしろ新しいおやつのテーマパークなのかもしれないです。
昔はおばあちゃんが居た。
今は地域の大人が居て相談できて、楽しみがあって安心して過ごせて、学べるといった令和バージョンへのアップデートが必要です。
ある意味、制度支援の直前を担う人口減少社会の社会インフラに近いです。
特に前のめりに何かしてあげる場所じゃないからこそ、気軽に来れる気がしてます。
事実、もしかしてこの子?みたいな子どもが一人で来て黙って過ごしたり、みんなを見てたりします。
そこで人の声を聞く、知ってる顔が居る事が、色々な視点から見ても「あったほうが良い」んです。
えがおの駄菓子屋か日本中にあれば、多くの人の心の支え、学びになると信じてるから始められるんです。
これからの地域の未来にあったほうが良い、
の最適解は居場所のある駄菓子屋です!