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サラエヴォ・ウォーキング【世界多分一周旅バルカン編#7】

モンテネグロ、ブドヴァから隣国のボスニア・ヘルツェゴビナのサラエヴォへ向かう朝7時のバスに乗り込んだ。
モンテネグロを出国し、ボスニア・ヘルツェゴビナへ入国する。
今回は、全員がパスポートを持ってバスを降り、スタンプを押してもらってまた乗るのを2回繰り返した。

ボスニアヘルツェゴビナに入国!
と思ったら、スルプスカ共和国にようこそ、と書いてある。
その理由は後述。
どっちが女か分からん
バスから見た景色
ボスニアヘルツェゴビナの国旗



ボスニアについて、地球の歩き方やWikipediaを読んだが、非常に複雑で難しかった。
まず、ボスニア・ヘルツェゴビナという1つの国なのに、行政上ではクロアチア人とボスニャク人が住むエリアのボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦と、セルビア人が住むエリアのセルビア人共和国(スルプスカ共和国)の2つの構成体に分かれているということ。
これが難しい。
そもそも旧ユーゴスラビアの国なので、様々な文化や宗教、人が入り混じる多種多様な国家だったということ。

サラエヴォにしか立ち寄らないので、サラエヴォについて読んだことについてここで自分のための備忘録としてまとめる。

1.サラエヴォという町の中に、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人ゾーンのスルプスカ共和国との見えない境界線があるということ。

2.クロアチア人、セルビア人、そして「ボシュニャク人」と呼ばれるイスラム教を信仰する人々が共に暮らしていて、ひとつのエリアにクロアチア人のためのカトリック教会、セルビア人のための正教教会、ボシュニャク人のためのモスク、ユダヤ人のためのシナゴーグが並んで建っているという、不思議な光景が見られるということ。

3.サラエヴォは、オーストリアの皇太子がボスニア系のセルビア人によって暗殺された場所であり、それを契機に第一次世界大戦が勃発したということ。

4.それから1992年から1996年まで続いたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争。
ユーゴスラビアからの独立を宣言したボスニアヘルツェゴビナ共和国軍に対して、セルビア人側のスルプスカ共和国軍が丘の上を陣取ってサラエヴォを包囲し、1万人以上の一般市民が殺害されたこと。
これは私が高校生の時に起こっていたことなのに、遠い国の出来事でほぼ記憶にない。
町はかなり破壊され、人口も紛争前の6割ほどに減ってしまったが、21世紀に復興を遂げたこと。

ざっくりとまとめても、これだけの歴史的事件と背景のある場所。

今回の半日のサラエヴォ滞在でどの程度、何を感じられるのかは分からなかったが、立ち寄ると決めたおかげで、こういう背景を改めて学び直すことができただけでも意味はあると思って、訪れた。

サラエヴォのバスターミナルを降りるといきなり飛び込んできた変な形のタワーや、新しいショッピングモールがいくつもある。結構都会だなと思ったが、新しい建物とそうでない建物の差が激しい。
小高い丘に住宅街が見えた。あれがセルビア人のゾーンだろうか。

いくつも国境を越えてきたが、手前のモンテネグロはユーロで良かったのに対して、ボスニアはユーロではなくマルクで、両替をしないといけない。私は半日しかここにいないので、どれくらい下ろしたらいいのかまた分からない。レートも調べてなくて、simカードも買っていないから、ネットでの検索もできない。荷物を7時間ほど預けようと思って預かり所に来たがユーロしかない。
さてどうしようか。

怪しいおじさんが、「ユーロと両替してやるよ、10€=20マルクでどうだ?」と言いにくる。
後ろに並んでいたトルコから来た女の子2人組が「何か困ってる?」と聞いてくれたので、事情を伝え、10€=20マルクで合っているのかも聞いた。
すると、くるくるした髪型の女の子が「それで大丈夫だけど、多分あのおじさんは手数料とかとってくると思うからやめた方がいいよ。私、20マルク持ってるから10€と交換してあげる。」と言って私の10€と両替してくれた。
スカーフを巻いている方の女の子が、「他に何か困ってることはある?」と聞いてくれたので、「トイレに行きたいんだけど小銭がなくて…」と情けないことを言うと、「1マルクあげる!トイレはあっちだよ!」と言ってくれた。
なんて優しいんだろう。
ありがとう。
幸先がいい。
また、町の中心部まで歩いていけるか聞くと、4kmほどあるからトラムに乗るか歩くかだけど、歩けるよ、とのこと。
トラムの線路沿いを歩くことにした。


このトラムの走る通りは「スナイパー通り」と呼ばれている。
その名の通り、ボスニア紛争、サラエヴォ包囲の時に、セルビア人スナイパーが反対側から銃を打ちまくった銃弾の痕が、アパートやビルのあちこちにある。
予想以上にあった。
映画「ホテル・ムンバイ」を見てから現地のインド、ムンバイのテロの跡が残る場所へ行き、銃弾の痕を見た時よりも、カンボジアの戦争のあとを見た時よりも、衝撃的であった。
銃弾の痕の数が多すぎた。
新しく建ったビル以外、全てに穴がある。銃撃の音が聴こえてきそうな錯覚が起きた。
大粒の雨が降ってきて、地面がポツポツと濡れていったのだが、それすら銃弾の痕に見えてきて、暗い空が怖かった。



1時間もしないうちに、町の中心部に着いた。ここは、ヨーロッパというよりも、中東やアジアのエキゾチックな雰囲気が広がる。活気もあった。
こういう賑やかな場所に着くと少しホッとして、ボスニア料理を食べることにした。
美味しそうな看板に惹かれて、よく分からないまま、サハンというサラエヴォ名物の料理を少しずつ盛り合わせたものを注文。
これがかなり美味しかった。
今のところ、バルカン半島ベスト1。
ヨーロッパでも3位以内、いやこの世界多分一周旅の中でも3位以内には入ってくる美味しさであった。
日本にボスニア料理屋さんがあったら流行ると思うし、私がかなり頻繁に通うことは間違いない。

手前から反時計回りに、マッシュポテト、ビーフシチューみたいなの、餃子みたいなの、ほうれん草のバター煮みたいなの、肉団子、ミンチと米を美味しく炊いたものを葉っぱで包んだもの、ピーマンに詰めたもの、トマトに詰めたもの。
これ、餃子みたいなの。
肉と米が詰まってる。夢も詰まってる。



とにかく、お肉がたくさん入っていて、味も日本に馴染みやすそうな味。
ボスニアヘルツェゴビナ、サラエヴォは、バスで走っていた時にも感じたが、山に囲まれていて山岳国家らしく、肉料理が豊富なのかもしれない。肉が美味しい国は良いぞ、パンもついて17マルク(1200円くらい)と安い!と大絶賛しておく。


町歩きの続き。
歩いているとこういう模様の場所に出くわす。


サラエヴォ・ローズと呼ばれるもの。
それは、迫撃砲の砲弾による死者を出した爆発の跡を、後に赤い樹脂で埋めたもの。
スルプスカ共和国軍(セルビア人軍)は丘の上に大砲を置いて、毎日300個以上の砲弾を投下したらしい。こんな一般市民ばかりが暮らす普通の町に、どうしたらそんなことができるのだろう。
残酷すぎる。
よく知らないまま通り過ぎるだけの旅人として、セルビア人が少し嫌いになりそうだったが、カミーノで出会ったセルビア人の女子2人組の、毎日私に向けてくれたあの朗らかな笑顔を思い出して思いとどまる。戦争や紛争は、起きてしまえばどの国も残酷になる。それが戦争なのだ。

サラエヴォに来たからにはと思い、「人道に対する罪と虐殺に関する博物館」にユーロで支払って入った。

こんなお土産も。

最初はじっくり見ていたが、途中から頭が酷く痛くなり、駆け足で見て博物館を後にした。
原爆の記念館に来る外国人もこういう感情になるのだろうか。
信じられない。
つい30年前の出来事ということが、更に辛い。多分、これまで見てきたいわゆる「戦争」の博物館は私が生まれる前の時代の出来事として、自分の中に距離があり、遠い過去の出来事として冷静に見てきた気がする。
しかし、ボスニア紛争は、私が高校生の時に起きていたことで、つい最近(と言っても30年ほど前だが)のことに思えて心理的距離を持って見られなかった。
ロシアとウクライナの現状も何十年も経ってこういった博物館などができて、未来の子供たちが見ることになるのだろうか。過去から学べる、と博物館に書いてあったが、ロシアの今は、過去になるのを待つしかないのだろうか。
こんな博物館が今後生まれないことが1番いいのだが、こういう博物館で見た経験やこの感情をどうしたらいいのか分からない。
一般市民の生活にまつわる洋服、靴、おもちゃ、本が血に染まっていたり、手足のない赤ちゃんや子供の写真。
私が以前よりも少しだけ世界を知って、世界で起きていることが少し身近に感じて、だからといってそれが何になるのか分からない、と思った。
雨だったからかも知れないし、悲惨な内容に耐えられなかったからかも知れないけど、頭痛があまりに酷いため、薬を飲んで休憩することにした。

ボスニアはコーヒーが有名のようだが、私はコーヒーが飲めないので、紅茶を飲む。トルコ風のチャイだった。

バルカン半島のスイーツといえばバクラヴァになる。


チャイを飲んで少し落ち着いた。
かなりしんどい内容の博物館だった。
先ほど見たもの全てを早く忘れたいと思ってしまう自分の軽薄さに、ほとほと嫌になる。
気持ちを切り替えたいと思うし、切り替えを得意としている自分の残酷さをも見て見ぬふりして、町歩きを再開させた。



ここは宗教文化の交差点のような気がした。
セルビア人の正教教会、クロアチア人のためのクリスチャンの教会、イスラムのモスク、ユダヤのシナゴーグが一角に集まっていた。
色々と旅をしてきたが、4種類の宗教が近所に揃う場所はなかなかなかった気がする。だからこそ、火種になりやすいのだろうか。4つの神が集まれば最強な気がするのに、平和とは神が集まっても難題なのだろう。

イスラムのモスク
セルビア人の正教教会
クリスチャンの教会
ユダヤのシナゴーグ



町を歩いていると、緑も多く、川も流れていて、気持ちのいい場所も多い。
ラテン橋に出た。
ここで、オーストリアの皇太子が暗殺されて第一次世界大戦に繋がったと教科書で習ったが、つくづくサラエヴォは歴史の負の遺産が多い。

ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボでの第二次世界大戦の軍人および民間人の犠牲者を追悼する「永遠の炎」というものが町の中にある。
この記念碑は、1946年4月6日、ナチスドイツとファシストのクロアチア独立国による 4 年間にわたる占領からサラエボが解放されて 一周年を迎えた日に奉納さたとのこと。
第一次世界大戦、第二次世界大戦、そしてボスニア紛争のサラエヴォ包囲。
歴史は繰り返され、2度と繰り返さないと誓う今。

永遠の炎。
かっこいい写真の撮り方をしてる人

帰り道もまたスナイパー通りを歩いてバスターミナルまで帰る。行きほど、銃弾の痕を見てもショックを受けないで歩く私がいる。
ユニークな形の新しいショッピングモールの建物を見て、復興が進んで町が進化していることを感じる。
人間は、こんな新しい建物を創ることができる。
壊すこともできるし、奪うこともできる。でも創ることもできるし、維持することもできる。



バスターミナルに戻ると、あのトルコ人の女の子2人組がいた。1マルクを返そうとしたら、いいのいいの、と言って一緒にお茶することになった。
アルバニア、コソボ、セルビアと旅してボスニアに来たと話す。私とスタートは同じだが、ルートが違って面白かった。
カフェの店員のボスニア人男性が、私が日本人と知ってとても喜んでくれて、左腕に入れた五重塔と着物を着た女性のタトゥーを見せてくれて、自分がいかに日本が好きかを話してくれた。日本語も独学で学んでいると言っていて、日本に来年遊びに行くのを目標にお金を貯めていると言っていた。隣に座っていたメキシコ人男性も、会話に入って盛り上がった。
「すごいね、いろんな人種が集まって、グローバルだね」とトルコのスカーフをかぶった女の子がそう言って笑った。
ボスニア男性が、記念に日本のコインを欲しいと言ってきて、財布を探したが、紙幣しか持っていなくて男性は少し残念がった。私はその代わりに折り紙で鶴を折ってプレゼントした。
「そうだ、折り鶴は平和の祈りを意味するんだよ」と私自身も思い出して、そう伝えた。
トルコ人もメキシコ人もボスニア人も素敵だねと言って、笑顔になった。カフェのカウンターに飾ってくれて、ボスニア人男性は「アリガトウ!」と言った。
そして、それぞれが乗るバスの時間が来て、みんなが笑顔で別れた。


私は、半日しかいなかったサラエヴォという町で見たもの感じたことを、忘れないでいたい。そして好きでいたい。
そう思ったし、それしか思うことができなかった。
そして、サラエヴォを通り過ぎた。
旅はまだ続く。


『戦争中に子どもでいるっていうのは、つまり、学校に好きな子がいて、その子が迫撃弾で殺されるってことだよ。 』
ヤセンコ(男)1977年生まれ

ぼくたちは戦場で育った

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のりまき
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