インドの洗礼【インド#2】
初めてインドに来た16年前。
それはそれはひどい下痢嘔吐がきた。
もともと体が強くない上に、特に胃が弱い体質なので、すぐ胃が痛くなるし、日本でもインドカレー屋に行くと年中便秘の私のお腹がちょっと緩くなるのだが、あの16年くらい前の体験は衝撃的だった。
胃がちぎれるかと思ったし、こんなに勢いよく人間は吐けるのかというくらい、勢いのあるやつを上から出してたし、お尻は炎上していた。
これがいわゆるインドの洗礼と呼ばれるやつなのだが、そもそも「洗礼」ってキリスト教の入信の時の神聖なる儀式のことを言うのではなかったか。あの神聖さは全くないのに「インドの洗礼」と呼ぶのが腑に落ちないが、通過儀礼的な意味なのだろう。
初めてのインド以降(しかもインド初上陸2日目に起きた)、前回の6回目のインドまで一度も洗礼は受けなかった。
文字通り洗礼を受けて通過したから、もう私の体はインドに順応したのだと思っていた。インドが認めてくれたのだと思っていた。
ところがどっこい、油断した頃にかましてくるのがインドというやつだ。
今回もびっくりした。
これ、ヤバいんちゃうかな、という前触れがあった。
ストリートフード(油ギトギトのジャレビ)を調子に乗って食べたせいだと思うが、その後にパハールガンジで屋台のやたらと辛いモモを食べたせいかもしれないし、変な味がするラッシーを飲んだせいかも知れない。
元々神経質なタイプなので、怪しい店では食べないし、歯磨きはミネラルウォーターで口をゆすいでいたタイプなのだが、タイとラオスのあまりの平和さと屋台やストリートフードの美味しさが、私の神経質さをやわらげてしまっていた。
タイの延長線上にインドがある勘違いをしてしまった気がする。
まったくもって別なのに。
それと、ラオス後半のコロナを疑う体調不良の回復のおかげで、なぜか私は無敵感と万能感に包まれていて、これで厄落としになったぜ、と浮かれていた面もある。
おかげでえらい目にあった。
夜行列車に乗る2時間前にそれは上から突然始まった。
急になんか吐きそうかも、と思ってトイレに行って試しに「オエッ」って言ってみたら、めちゃくちゃ出た。
ええ。
しかも固形はなくほぼ水。
なんなん。
そんなつもりなかったのに。
ちょっとオエッて言ってみただけやのに。
変なの。
そして、駅に向かうための荷造りに戻ったら、なんかお腹がおかしい。
試しにトイレに座ってみたら、以後、表現を自粛。
なんなん。
でもお腹は痛くないな。変なの。
そしてまた荷造りに戻るが、変な汗が出てきた。
これはヤバいかもしれない。
全部出した方がいいなと思い、便器に向かって「オエッ」と3回言ってみたら、3回目に信じられないくらいの水が出た。
そして胃が痛くて座り込んでしまった。
これ、あれやんか。
そこで私はこれがインドの再洗礼だと気づいたのである。
ねぇ、今から17時間の夜行列車に乗るんですけど。
電車内にトイレはあるけど汚いからやだなぁ。
宿のトイレットペーパーを丸ごとカバンに入れて、なんとか荷造りを済ましてフラフラになりながら宿を出た。
そこから歩いて、またメトロに乗って、そして歩いてデリージャンクション駅に到着。
チケットに書いてある列車番号を電光掲示板で探し、案の定列車は遅れていたから、プラットフォームだけチェックして、ファーストクラス用のウェイティングルーム(2Aでも使える)で休むことにした。
10ルピー払って待合室に入り、空いているソファーを見つけてバックパックを床に放り出してそのまま倒れ込んだ。
寒くてダウンを着ていたのに、汗だくである。
私のバックパックの横をネズミが走り回っているのを見ても避ける気力がなかった。
立ち上がって水だけ買って、またトイレに行く。
口からはマーライオン噴射、下からはもうほとんど何も出ないけど、地味に出る。
どっちから片付けようか悩むが、気持ち的には上から行きたい。
でも万が一に備えて、下から行く方が良かったりする。
胃が誰かにひねられているように痛い。
ヒンディー語の数字は覚えていたので、ヒンディー語の列車番号のアナウンスを聞き逃さず、何とか列車に乗ることができた。
エアコン付きの寝台車両の下の段を予約していたので助かった。
4人用のコンパートのような形式なのだが、すでに乗っていた向かいの若いインド人女性が死にそうな顔色で横になっていた。
そして私も同じ顔色で横に倒れ込んだ。
ここは病院かというような状況を、私の上の段から女性の夫が心配そうに見下ろしていた。
トイレは2人で交互のように駆け込んだ。電車の揺れに耐えられそうにないくらい敏感に胃が反応していた。
脱水を起こすかもと思い、私は適宜、こまめに水を飲んでいたのだが、水を飲むと10分後に飲んだ水以上の量の透明の液体を吐いた。
トイレまで間に合わなくて、列車の外に猛烈に吐いたりもした。
汗だくで震えていたし足もつった。
インド人もびっくりの、もうむちゃくちゃである。
胃薬を飲んでも水を1口飲むたびに吐くので、これは水すら飲んではいけないやつだなと思い、17時間を絶飲絶食でいくしかないと覚悟を決めた。
汗をかいたシャツを脱いで着替えて、ダウンを着込んで毛布を被り、祈るように横になった。
朝11時デリー発の列車は、翌朝6時前頃にジャイサルメールに着く予定。
景色も見れるし、眠れるし、本も読めるし楽しみ。列車で食べるおにぎりも作ったし、バナナもポテチもあるし、なんて余裕ぶってた私は、もうどこにもいなかった。
ただ断食修行のように耐えた。
面白いもので、水すら飲まなくなると、もう何も吐き出すものがなくなって嘔吐は数時間後にはおさまったし、体の中はすでに空っぽで下からも出なくなった。
ただ割れるように頭が痛い。
頭痛持ちのロキソニン常用者なのだが、ロキソニンも胃を荒らすから飲めない。
これが地味に一番しんどい。
頭痛持ちの人間から頭痛薬を奪ったら、気が狂うと思う。
でもここはひたすら耐える。
ここで水を飲んだらまた始まるんだろうか、喉が渇いたし一口くらいいいかな、のせめぎあう戦い。
しめちゃんからちょうどLINEがきたので、状況を伝えたら、
「飴ちゃんくらいなら大丈夫ちゃうか、糖分も取れるし」というありがたいアドバイスをいただく。
しかし、その言葉を聞いてから、カバンに手を伸ばして飴ちゃんポーチを取る気力を奮い立たせるまで、ものすごく時間が必要だった。
歳をとると、こんな感じで一つのことをするのにものすごく時間がかかったり、できなくなるのだろうな、といつも体調が悪くなると、老人になった時の自分をシミュレーションしてしまう。
諦めずに頑張ってなんとか飴ちゃんポーチを取り、全身の力を使って飴ちゃんの包装を破り、なんとかして口に入れたら泣きそうなくらい美味しかった。
私はまたもや何をやっているんだろうか。
こんなにボロボロのヨレヨレになって。
しかし、ウドンターニーの時ほどメンタルは落ち込まなかった。
むしろ、またインドにやられたー、という面白いような悔しさが大きかった。
隣のベッドのお姉さんも10時間くらい経った頃には体調が戻ったようでトイレにも行かなくなり、夫に膝枕してもらう余裕も出てきて、誰も膝枕をしてくれていない私と目が合って、微笑みあった。
彼女の夫は、顔が濃くて強面なのに彼女に甘くて、わがままをちゃんと聞いてあげている感じが、私の昔の恋人に似ていて、彼は元気かなぁなどと思い出しながら眠りについた。
余談だが、起きたらその昔の彼から「久しぶり。元気?」とLINEが来ていてびっくりした。
この通り元気じゃねぇよ。
そんなこんなのほぼ入院のような夜行列車は、1時間遅れて18時間かけてジャイサルメールに到着。さすがに18時間経過すると胃腸のやばさはほぼ治っていた。
無料で宿の人が迎えに来てくれる約束だったが、迎えに来たよという男が車に乗る前に100ルピー払えと言ってきてむかついたので「無料だと聞いてる。払わない!」と怒ったら、10分後に約束していた宿の人が来てくれた。
100ルピー払えと言った人は赤の他人だった。
全く、インドだ。
その迎えがまさかのバイクで、夜明け前の寒空をバイクにまたがり、手がかじかむし、久しぶりに体を縦にしていてまた胃が痛み出したし「助けてー」と叫びたくなったが10分で着いたから助かった。
そして寝る。
えっと、夜明け前の空を見ながらですか。
早朝すぎてまだチェックインできないと言われ、屋上に布団が敷いてあるスペースで毛布を2枚かけてくれて、10時までここで寝てて、と言われる。
9℃ってまあまあ寒い。
チャイを淹れてくれたが、私の胃腸が昨日からむちゃくちゃなので飲めないことを伝え、水を一口だけ飲んで寝た。
途中寒くて起きたら、毛布3枚目を持って来てくれて寒くないように焚き火を始めてくれたが、そういうことせずに部屋をなんとかしてくれやと思いつつ。
9時に「部屋が準備できたよ」と起こされ、ふらふらで部屋へ。
そしてベッドに倒れ込んだ。
そういえばこの宿はジャイサルメールの城の砦の中にあって屋上から絶景が見えると書いていたが、一度も見ないまま、ただカーテンのない部屋の窓からリスが走り回っているのだけをしばらく見た後、その日は18時までベッドで気絶していた。
18時頃に心配した宿の人が来て、私の名前を呼んでいた。「具合はどう?何か食べた方がいいよ」と。
それもそうだ。
一昨日の夜からほぼ何も食べてない。
昨日の朝、まだ異変が起こる前に作って握っておいたおにぎりがバッグの中にあるのを思い出して、ちょびっとかじった。
美味しい。
尾西のわかめごはん。最高。
ゆっくり何とか半分食べた。
屋上に行くと、チャイよりも胃に優しいから、とジンジャーティーを淹れてくれた。
そして、「プレーンライス、ちょっとなら食べれる?」と聞かれて「食べたい」と答えた。
だいぶ待って出てきたのがおじやに近いライスで、プレーンではなくクミンがまざっていたのに驚いたが、「クミンは胃腸にいい」というので、そのおじやにタイで買ったのりたまふりかけをかけて食べた。
久しぶりの辛くないおじやは、泣きそうになるくらい美味しかった。
不思議な感覚だけど、全部あんな勢いで吐き出すと、疲労感はすごいのだけど、スッキリする。
解毒、浄化されたというか。
そういう意味ではやっぱり「洗礼」で正しいのかも知れない。
ただ本当に疲労感がすごい。
一人旅で来ているフランス人女性のエマニエルが私に「あなたは昨日の私よ。私は明日のあなたよ。」と元気そうに言った。
エマニエルも洗礼を受けて復活したところらしい。
翌朝、吐き過ぎて胃酸のせいか喉が荒れてしまい痛いと言うと、宿のRKがのど飴を買ってきてくれた。
まだあまり食べられないと言うと、RKはバナナも買って来てくれた。
アリは「バターなしのトーストなら少し食べてみたら?」と言って焼いてくれた。
ヤシンには夜寒いと言ったら、沸かしたお湯を持って来てくれて湯たんぽができた。
こういうの全て込みで、洗礼なのだろう。
だからインドは嫌いになれない。
翌日の夕方にようやく外を歩けるくらいに回復したので散歩に出かけたが、30分ほど歩いただけで疲れてしまった。
先に内臓が疲れる初めての感覚だった。
普段、旅先では雰囲気が苦手で日本人宿を利用しないようにしているのだが、日本食を求めて、日本人宿の中にあるレストランに来てしまった。
すると、そこの日本語ペラペラの日本人宿の人が、「胃が痛いならフライドライスにする?スープ?ヌードルも少し入れようか?足伸ばして横になって」など至れり尽くせりで優しかった。
今は日本人が泊まっていないらしく、こっちの宿でも良かったかも、など少し気持ちが揺れた。
なんせレストランからの景色も抜群に良かったし、Wi-Fiが最強だった。
しかし、私は知っている。
この町は、キャメルサファリという砂漠に行ってラクダに乗ってキャンプするツアーで成り立っているということを。
宿の値段をできるだけ安くして、サービスを良くして、砂漠キャンプでお金を払ってもらう魂胆。魂胆と書くと良くないけど、ビジネスとしてそういう形をとっている。
警戒心強めの疑心暗鬼人間の私は、キャメルサファリに連れて行きたいから優しくしているだけなのかを見極めないといけない、と優しくされるたびにその想いがよぎる。
素直に優しさだけを受け取っていればいいのに、どうしてもそう考えてしまう。
日本人宿のその人はそっち側のような気がしなくもなかったが、まだ分からない。
コロナ禍で大変だったでしょ?と聞いたら、大変さを話してくれて最後の方に笑い話として、「村の人はやることなかったから、家でめちゃくちゃ子作りしてすごく子供が増えたよ。コンドームが値上げしたんだから。」と笑って言った。
なるほどと思ったし彼はいい人だが、初対面の女にこういう笑い話をする男は少し苦手だなと思ってしまった。私は自分のこういう感覚を大事にしたい。
「明日も来るよね?」と何度も念押しされたが、私はどうしてもWi-Fiのあるところでバカリズムのドラマの続きを見たい弱みもあったので、「明日はWi-Fiを使わせてもらいに来ます」と伝えた。
話は少し脱線するが警戒心と言えば、女性の一人旅特有の諸々の面倒なことが増えるので、私はインドでは左の薬指に指輪をするようにしている。
これは過去6回ともそうしているので、私のお守りのようなもの。
こんなもので払いのけられないくらいインド人男性側もなかなかやるのだが、私ももう若くないので、浮き足立つこともなくリスクは減らせている。余談。
泊まっている宿で一度だけキャメルサファリはどう?という話が出たが、私はサハラ砂漠でキャンプしたことがあるし、股関節が悪いので長時間ラクダに乗りたくないし、なんせ今体調が最悪だと伝えたら、OKと言って二度と勧誘してこなくなった。
それからも変わらず優しくしてもらえている。私の体調が良くなるタイミングを待っているのかも知れないけど。
自分の宿に戻ると、お湯が出なかったので今日のシャワーは諦めたし、相変わらずWi-Fiは使えなかった上に、停電した。
屋上レストランで一緒にいたエマニエルは、ささっとヘッドライトを装着していた。
明日の私は頼もしかった。
うちの宿付近だけ停電したおかげで、ジャイサルメールの城がとても美しく見える。
ポジティブに物事を捉えられるようになってきた。
今日も、私にはチャイではなくジンジャーティーを黙って出してくれるこの宿も、悪くないなと思ったりしている。
洗礼を受けた人間は、一回り大きくなるのかも知れない。
しかしできればもう二度と洗礼はごめんである。
追記
なかなかよくならないので、RKに連れられてインドの薬を貰いに行き、1発で良くなりました。
「インドのバクテリアにはインドの薬しか効かないから」と言われたけど、この効き目の強さが少々怖かったりする。
なんにしろ、助かりまして、元気です。