月虹
「げっこう、って知ってます?」
馴染みのバーのマスターは、オレの前に灯っているろうそくを取り換えながら聞いてきた。
「月の光の月光の事ではないんだな? わざわざ聞いてくるって事は」
オレはタバコに火を付けながらそう答える。
「ええ。月の虹と書いて月虹。夜に月の光によって出来る虹の事らしいです」
「夜空に浮かぶ、虹か。そう言えば、外国の何処かの森の中にある滝にかかった夜の虹の話を聞いた事があるよ。詳しい事は忘れたけど」
「見たら幸せになれるとか、願いが叶うとか、そんなありがたいモノらしいですね」
「昼間の虹でも見つけたら結構嬉しい。夜の虹なんて見つけたら、それだけですごく幸せな気がするけどね」
灰皿に傾けたタバコから立ち上る紫煙、その煙の向こうにあるウィスキーボトルを眺めながらオレはそう言う。今、オレが飲んでいる酒だ。スプリングバンク、春を待ち望む季節にはコレを飲みたくなる。
「そうですね。見つけられたら、それだけで結構嬉しいでしょうね。でも、最近、何人かのお客さんから聞いたんですよ。夜の虹を見たって」
「ほう。その月虹というのは珍しいものじゃないのか?」
「いえ、それが、自然現象としては昼間の虹と同様の原理のものなので、発生する確率は昼間の虹とそう変わらないらしいんですよ。ただ、光源が太陽ではなく月なものですから、月の光は太陽のように強烈ではありませんから、街の灯りがあるだけで観測出来なかったらしいんですよね」
「あぁ。なるほど」
オレはマスターに向けて苦笑いを浮かべて言った。
「このご時世だから、月虹が見える機会が増えている、と」
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マスターに見送られてオレは店を出る。マスターの手元の手持ち燭台のろうそくの灯りで照らされている杉皮塀は仄かなあかりで老人の顔の皺の様に濃い影を無数に刻んでいる。
「提灯、お貸ししましょうか?」
マスターにそう言われたが、小型懐中電灯くらいは持っている。今のろうそくの灯りの雰囲気がオレは気に入っているから、今は出さないだけだ。
「いや、いい。満月の夜を選んで今日は来たんだよ。大丈夫。問題ない」
「そうですか。では、お気をつけて。月虹が見れたらいいですね」
「あぁ。ありがとう。それじゃ、また」
「ありがとうございました」
マスターのその言葉を背に、オレは帰路につく。
24時間365日電気が使える事が当たり前じゃなくなるだなんて、思ってもいなかった。計画停電が実施されるようになって、およそ一年か。バッテリーメーカーと氷屋とろうそく屋は儲かっているらしいが、夜の暗さにも生活の不便さにも、オレはまだ慣れる事が出来ずにいる。
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午前二時。一年前のこの街、この時間はこれほどまでに暗くなかった。電力供給を元通りに戻しますと政治家と電力会社が揃って訴えりゃ、例えば、街灯をガス灯にするなんてインフラの逆行を強行する事も出来ない。灯りの消えたコンビニは、腐らないモノ、腐りにくいモノの夜間販売を小さな窓口で行っていたりしている。とても割高な価格で。さながら、パチンコ屋の裏の景品買取所のような雰囲気で。街は、暗い。
されど、今宵は満月。アスファルトの道路をアスファルトの道路と認識できる程度の明るさはある。勝手知ったる街を歩く分には問題はない。月光浴と洒落こもうじゃないか。オレは月を見上げ、そして月が出ている反対側の方角の空をも仰ぐ。虹は太陽の反対側に出るものなのだから、月虹も月の反対側に出るはずだ。生憎、月虹は見えない。酔いの回ったキレイではない心の持ち主のオッサンには、見えないモノなのかも知れないが。
いつもの道を、いつものペースで家に向けて歩く。街灯も信号も消えたままの真夜中の街には車も走っていない。電気が使えない事に端を発した不景気は、その根を深く広く張り巡らせている。夜の闇に前向きな明るい気持ちが飲み込まれているようにさえ感じられる。オレも不景気に飲み込まれた貧しい男だが、馴染みのバーがなくなっては困る。金は社会の血だからな。貯めこむよりは、使って清貧。それでいい。
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月の出ている方角、その反対側の空が広く見える道……、いつもの道を外れたキッカケは、そんな空を見ようという気まぐれからだった。ウィスキーの余韻と月虹の話に、もう少しオレは酔っていたかったんだ。
月虹はいくら空を見上げても見つけられない。そしてついには月も見失った。どこをどう迷い込んだのか、どうやらオレは狭い道に入ってしまったようだ。建物と建物に挟まれた狭い道から見える空は、そもそも小さい。月や月虹よりも、まずはちゃんと帰れる道を探さねば。三杯目に飲んだスプリングバンクの後、オレはどれだけ飲んだんだったか。それほど酔ったつもりもないが、三月初頭の深夜の街をそれほど寒いと思わないくらいには酒で身体が温まっている事は確かだ。
辺りをキョロキョロと見渡すと、朱色の鳥居が目にとまった。その両脇には狛狐《こまぎつね》、稲荷か。こんな場所に稲荷があったとは知らなかった。鳥居から続く参道はやはり暗かったが、オレのいつもの帰り道のその付近であるに違いないので、それほど大きい敷地ではなかろうと、オレは鳥居をくぐり、参道に歩みを進めた。手水くらいはあるだろう。喉が渇いた。
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深夜のその稲荷の参道は周辺の民家と境内に生い茂った木々のせいか、月明かりが届かないようで真っ暗だった。オレはハーフコートのポケットの中から懐中電灯を取り出して参道の石畳を照らし、奥へと進む。想像していたよりずっと大きな稲荷のようだ。夜の闇の中ではその全容は掴めないが、社殿はまだ見えない。かれこれ五分程、歩いてきただろうか。店を出てから十五分、鳥居をくぐってから五分、酔った体内時計など当てにはならないだろうが。
足元と前方を交互に照らしながら歩く。しばらくすると、再度鳥居が見えてきて、そしてその奥にぼぅっと社殿が浮かび上がっている。電気は通っていないはずだが、社殿はその朱色をオレの目に主張している。『こちらが参道です』と導くように、ぽつりぽつりと提灯に明かりが灯っているようだ。こんな真夜中にもろうそくの火を絶やさないとは、素晴らしい稲荷だ。
オレは手水に辿り着き、竹筒からチョロチョロと出ている水を柄杓に受け、それをそのままグイっと飲んだ。美味い。美味い水だ。
「不調法《ぶちょうほう》なことよ……」と、誰かの声がした。そして、すぐさまチリーンと鈴の音。ゾゾゾと背すじに立つ怖気《おぞけ》、オレはすぐさま辺りを見回す。が、誰もいない。気のせいか。いいや、暗闇に対する根源的な本能の恐れが生み出した幻聴か。おそらくは後者だ。喉を潤すという目的は達したが、自分で勝手に生み出した暗闇への恐怖に打ち勝つ事も大切だ。ビビッて逃げ帰るのではなく、ちゃんと参拝まで果たした上で帰るんだ。オレは、いくじなしじゃ、ない。
苦しい事だらけの人生の中に時折現れる嬉しい事、それくらいの間隔で暗闇の中に点在している提灯の明かりは、オレを拝殿にまで誘《いざな》ってくれた。
賽銭箱に小銭を数枚入れる。『怖くなんてないぞ。ビビッてなんていないからな!』と自分に言い聞かせてここまで来たオレは、目をつむって手を合わせ「お稲荷さん、お水、ごっそさんでした!美味しかったです! さっきの店で聞いた月虹という夜の虹を見たいです。どうか見せてください」と声に出した。神頼みではない。怖がっていない自分を誇りたい空元気だ。本当にしたい神頼みは他にいくらでもある。
すると、また、チリーンと鈴の音が聞こえ、「オマエ、おもしろいな」と誰かの声がした。ハッと目を開いたオレは首を左右に振り周りを確かめた。誰も、いない。それどころか、稲荷の境内になどオレはいなかった。前にも左右にも、身体を反転させて後ろを見ても、そこには社《やしろ》どころか鳥居も木々もない。オレはなんでもない、特徴のない住宅街の中に、立っていた。
そして、オレは空を見上げた。星々が貼られた巨大な暗幕にコンパスで引いたような円弧の皺……、いや違う、美しく光る星々の手前にうっすらと何色かの色で引かれた円弧がある。あれが、月虹か。とても弱い色調のはかなげなその虹は黒の背景の手前にしっかりと確認出来る。これは、嬉しい。夜の虹、知ったその日に見る事が出来たなんて。オレはなんてラッキーなのだろう。
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あれからオレは、あの稲荷を探し求め街をずっと彷徨い歩いている。しかし、どうにも見つからない。なぜだ。
本当に叶えたい望みは他にいっぱいあるのに。本当に真剣にしたい神頼みは他にいっぱいあるってのに。
オレが神の領域にたまたま入り込めたのが真夜中の虹が起こした奇跡ということなのか、神の気まぐれで招き入れられたオレを面白がって、神がオレに真夜中の虹を見せてくれたのか。そこのところが分からない。
それがどちらなのかは分からないが、「金が欲しい」「オンナが欲しい」と言えるよう、オレは次回に備えている。
次回は、ちゃんと。
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