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1、基本的前提

❍学術的思考を廃除した超単純理論

単純比較思考で読み説く魏志倭人伝。もうすでに何百年も議論されている問題です。あらゆる学術的思考は試されているはずです。逆に、単純に考えてみました。

私の中途半端な知識は廃除して、なるべく単純にどちらの可能性が高いのかを比較して、消極的選択を求めています。その中でも基礎となるものを選んで紹介したいと思います。

❍標準里を使う

多くの方が短里を用いて考えますが、当時、標準里が用いられていたのであれば、そちらが用いられた可能性が高いと考えます。

❍方位は正しい

方位に関しては、今より自然に近い生活をしていた当時としては、間違える可能性は低いのではないかと考えます。

写し間違えも可能性は低いと考えます。もちろん可能性としてはあるかもしれませんが、固有名詞ではなく日常良く使われる文字なので、その可能性も低いと考えます

❍ある程度の調査はされている

恐らく、専門家による調査が一度は行われたと考えます。そうでなければ国の間の里数はわからないと思います。その調査が基礎をなしていると考えます。それを補って、その他の目的で倭国を訪ねた人の記録も追加したと考えます。

❍倭国の情報は少ない

魏志の中で、朝鮮半島とその周辺の国々の場所、に関する記述は非常にわかりやすいです。やはり、海を越える倭国の情報と陸続きの朝鮮半島では、その情報量は段違いだったと思います。陸続きであれば、陳寿も実際に行って確認していたのかもしれません。

❍邪馬台国と投馬国に関する情報はもっと少ない

邪馬台国と投馬国を紹介する箇所では、その距離を里数ではなく日数で記述しています。これはその両国に関する情報の少なさと関連しているのではないでしょうか。

つまり、両国に関しては、今回魏志倭人伝の基礎をなしていると考えている調査官による調査、が出来なかったのではないでしょうか。

卑弥呼など倭国の高官と会うなどの目的がある人、そして、ある程度の身分の人でない限り、両国への入国が認められなかった可能性があるのではないでしょうか。そのため両国の情報がほとんど手に入らなかった。

そのような、高貴な人々や倭国の高官との交渉など他の目的がある人は、距離を計る必要はありません。そのため、日記のような記録しか残されなかった。しかたなく陳寿はそのままそれを記述した
邪馬台国への陸行一月は伊都国で行なわれた、歓待の期間が含まれていたのかもしれません。

つまり、むしろ邪馬台国と投馬国の記述だけが魏の施設団の記録を記述したものとも考えられます。

❍船の上では距離は計れなかった。陸上での計測は正確だった

船に乗った状態でどうやって距離を計るのでしょうか。正確な時計もないメーターもないのです。ちなみに、現代ではどうやって計っているのでしょうか。

当時、なんらかの難しい計測方法があったとしている人もいます。しかし、当時としてはそんなノーベル賞のような事を一般の人が理解できるでしょうか。そんな方法が広まるでしょうか。

一方、陸路では歩測を用いれば、道具なしで正確に計れます。

❍伊都国を標準里を用いて松盧国の東南五百里で考える

これまで示した前提で考えると、伊都国は標準里を用いて、松盧国の東南方向五百里となります。つまり、九州の南部にあったと考えられます。

「素直に魏志倭人伝を読むと」という文句が良く使われます。しかし、本当に素直に読むとこのように考えられませんか。

❍松盧国方射説

地図としてグラフィカルに書かれたものを、文章として記述する時の表現方法として考えます。

国や都市などの場所を伝えたい場合、まず多くの人が知っているであろう地点を基点にすると思います。例えば東京の新宿の北東〇〇キロメートルといったように。

今回の場合、帯方郡がその基点になっています。朝鮮半島のように陸続きであれば簡単です。しかし、倭国の場合海の中にある島を、2つ越えていかなければなりません。その島々には1つずつの国しかありません。

九州に上陸して初めて多くの国が存在することになります。つまり、そのような九州に初めて上陸した地点を新しい基点にしたと考えます。

❍松盧国方射説で陸路国は驚くほど正確

現代の九州で最も栄えている地域は博多近辺だと思います。当時も大きな国があったはずです。そして考古学的大発見として吉野ヶ里遺跡があります。そこにも大きな国があったと考えられます。

両地域はそれぞれ松盧国方射説で考えると、方位は東南と東であり距離は両国ともおよそ40〜50kmにあります。

この数字は魏志倭人伝の記述を、標準里で考えてぴたりの位置になります。つまり、吉野ヶ里遺跡近辺が奴国であり、博多近辺が不弥国になります。

このような陸路国の方位と距離の正確さを考えると、同じ陸路国である伊都国も標準里を用いて、方位も距離も正確だったと考えてもおかしくないと思います。

❍最後までお読みいただきましてありがとうございました。

どうでしょうか、学術的思考を廃除した時点で誰も聞く耳を持たないかもしれません。でも、そのように学術的に考えている方々もドキッとする箇所もあったかもしれません。まあ、伊都国が南部九州にあったと主張している限り、誰も聞く耳持たないだろうなあ。

このことは自分でも承知しています。素人が何も考えず素直に魏志倭人伝を読むと、このように考えてもおかしくないと思うんだけどなぁ。まぁ当たっているかは別にして。

このような「トンデモ説」ですが、もし面白そうと思っていただけたのであれば、次回以降もよろしくお願いいたします。さらに詳しく説明していきたいと思います。

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