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選択ミスは成長の糧になる!?

今回のinspirationの欠けらは…ちょっぴり心が軽くなるお話です。

これが正しい、これは本物!!と思って、とっても喜んで両手広げて取ってみたら、なんとまさかの…【何かが違うよ、気をつけて!!】という警告が脳内を駆け巡ったという体験から。

『ウソでしょ~、どこに行けっていうねん、何と誰と繋がれっていうのよ。もぉ~~~(# ゚Д゚)』と途方に暮れた…というのは本当のことです。


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人は辛い時ほど、誰かに…何かに…すがりたくなるものです。藁にでもすがりたい時ってあるのです。でも、それって悪いこと?って思ったりするかもしれないけど、全然悪いことじゃない!!って思っています。だって生き続けるには、そういうのもあっていいと思うから…

お恥ずかしながら、私はありとあらゆるものにすがったという過去があります。スピリチュアルな物から宗教まで。宗教でどっぷりはまったのは2つ。
仏教系の新興宗教と言われるものと、プロテスタント系のキリスト教。キリスト教は、いわゆる福音派と言われる教団のところで、プロテスタント系ではめずらしい、洗礼名を授けられる教会でした。洗礼も受けてちゃんとしたクリスチャンやってました(一応💦)ちなみに、洗礼名は【マグダラのマリア】でした。

 でも…私、洗礼を受ける前から、なんだか教会に来られている多くの信徒さんたちとはどこか違がっていたように記憶しているのです。おそらく、牧師さんの説教に対する捉え方や感覚が違っていた気がします。

個人的に小さいころから霊感??みたいなものをもっていたので、(birth記憶も少しある…)そのせいかなぁとか思っていましたが…

 洗礼を受ける1年前くらいには、はっきりと天使を感じたり、イエス様のエネルギーを感じていたり、精霊体験(ペンテコステといわれるもの)などの体験が本当に多くありました。そういった体験をしたせいもあるのですが、他の信徒さんたちよりも聖書で言っていることがわかったり、聖書の内容が理解できるスピードも速かったり、旧約聖書の中でも理解しにくいといわれる個所でさえ、脳裏にイメージが入ってきたりしていたのです。

 でも、そういう能力というのは、長年教会を築いてきた牧師さんや長年通っている信徒さんからすれば、邪魔というか疎ましいという感覚はあったのかもしれないんです。いつも、私の感覚は信徒さんとも牧師とも違うところにあったようで、牧師さんからは他の信徒さんより厳しい目で見られていたように思います。結局、教会に住んで教会の為に時間もお金も使ったけど、牧師はあくまで【人】で、どんなに立派なことを言ってもいても、普通に欲もあって、謙遜こそ見せるけど見せるだけ、実は普通に自己顕示欲も承認欲求も持っていることを見てしまったんです。
 あることをきっかけに、教会生活も信徒生活も本当に嫌になってしまって、牧師さんや他の信徒さんのいう事も何も信じられなくなってしまい、とうとうすべて辞めて離れてしまいました。

 しばらくの間は、本物って何だろうって、何が正しいのだろうって自暴自棄になっていた気がします。周りの人と何かが違う…私の感覚や意識とか、人より見えないものを感じることができてしまうことを、どうやったらどこに行ったら受容されるのだろうか…と、あちらこちら彷徨いました。
 そして、ようやく見つけたと思ったのも束の間、まったく見当違い…半分本物で半分偽物⁉だったのでした。

 しかし、それで大丈夫です。それでも大丈夫なのです。と言えるのは、それは…選択はいつも自由だからという事。どのような道を選んでも、どのような道具を選んでもいいのだそうです。あ、これじゃなかった…あ、こっちだった…というのはよくある事で、その都度修正して元に戻って、また前に進めば良いのです。

 私はいまだにジプシーやってます💦物事を決めるとか、進む道を選択するとか…よく考えずに進んで迷子になったり、転んでけがをしちゃうこともあります。でもね、それは天からのお試しで、魂の成長に必要な事だと思えるようになりました。

 つまり選択はいつも自由ということ。警告だって、聞き入れるも聞き入れないも自分次第なわけです。私の場合、警告に従わないと従うまで同じことが繰り返されるので…ちょっとだけ辛いところではありますが…

 そういうわけですから、選択ミスは罪の味ではなくて、選択ミスは成長の糧と思って、ちょっぴり心に余裕をもって参りましょ💗

 大丈夫!!失敗したと思ったら、いったん進もうとする足を止めて、扉を開けようとしている手を止めて、休みながらでいいから、元の場所に戻ってくればいいのだから…と思う今日この頃です。

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