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【エッセイ】明太子がつなぐ福岡と釜山の絆

 福岡で生まれ育った私にとって、明太子はかなり身近な食べもので、私がものごころついた頃には常に食卓に上っていた。子どもは辛いのが食べられないからと言って、まずは「辛子明太子」ではなく、「たらこ」という名の食べものを白いごはんと一緒に食べていて、そのまま食べるのも好きだったし、少しあぶって食べるのも好きだった。子どもながら、「たらこ」は私のお気に入りのごはんのおともで、我が家の冷蔵庫には欠かさずあった、いわゆる常備菜だった。高校生ぐらいになると、もう辛いものも食べられるだろうと、「たらこ」から「辛子明太子」へ昇格し、初めて「辛子明太子」を食べた時は、少し唐辛子辛さも感じながら、大人になった気がして嬉しかったものだ。

 こうして育った私は、ずいぶん大人になって、明太子が韓国由来のものであることを知った。奇しくも、辛子明太子店の最大手、辛子明太子を初めて作ったというF社の創業者K氏が書かれた、辛子明太子誕生秘話的な本を読む機会が与えられたからだった。そもそも、たらこの親、つまりスケソウダラが福岡で多く獲れるわけでもないのに、何故、辛子明太子が福岡の名産品として日本全国に知られるようになったか。そんな疑問は、もちろん子どもの頃から漠然と抱いていたのだが、たらこや辛子明太子が、あまりにも私の生活に溶け込み、当たり前に存在するものだったため、しかもこれが福岡特有の食文化であるという認識もまるで持ち合わせていなかったため、その疑問について深く追及するということはなかったようだ。

 そういうこともあり、『F社の創業者であるK氏が青年期を釜山で過ごし、戦後、引き揚げで福岡に帰って来るも、釜山で食べていた“명란젓(ミョンナンジョッ)”の味が忘れられず、なんとかその味を再現しようと試行錯誤を繰り返し、「辛子明太子」を作り出した』という話は、私にとって晴天の霹靂に値する衝撃だった。そして、「辛子明太子」がいかにして福岡の名産品としての地位を築いたかというのも興味深いもので、日本が戦後復興期を迎える時期におけるF社の創業者K氏の懐の深さと、高度成長期を迎えた時期の福岡という立地がもたらした賜物だった。どういう話かというと、当時、辛子明太子を作りたいと志願する者があれば、F社のK氏は喜んで作り方を教えたといい、こうして福岡で辛子明太子を作る業者が増えていき、新幹線の東京・博多間開通を機に、福岡土産として一気に広まったというのだ。

 辛子明太子は日本の食卓に定着し、白いごはんのおともとしてはもちろん、明太おにぎり、明太パスタ、明太バゲットなど、辛子明太子を使った料理もバラエティ豊かである。日本全国にも広まった辛子明太子、その由来が韓国であることを、はたしてどれだけの人が知っているであろうか。そんなことを思いながら、一人ほくそ笑む。

 そんな辛子明太子だが、本家・韓国で新たな動きが起きている。日本の「辛子明太子」、元は韓国から伝わったものなのだが、日本であまりにも美味しく発展したため、日本の食卓でその居場所を確保することとなった。それに対して、韓国の“명란젓(ミョンナンジョッ)”というものは違っていた。ある程度の歳を重ねた人々にとっては、ごはんのおかずとして食べられていたが、若者たちが好んで食べるものではなかったという。現に私の韓国人の友人たちは、“명란젓(ミョンナンジョッ)”について、あまり好きではない、あまり食べないと言っていた。それがである、最近になって、명란크림파스타(ミョンナンクリムパスタ/明太クリームパスタ)、명란크림우동 (ミョンナンクリムウドン/明太クリームうどん)、명란바게트(ミョンナンバゲトゥ/明太バゲット)などの“명란젓(ミョンナンジョッ)”料理が、オシャレなカフェやベーカリーで見られるようになり、若者たちに大人気だという。また、家庭料理としても大きな発展を見せており、パスタやうどんはもちろん、명란계란말이(ミョンナンケランマリ/明太卵焼き)まで作られているのだ。そして、それらの“명란젓(ミョンナンジョッ)” 料理は、SNSを通して瞬く間に広がっていった。これらは、若者たちによる新たな食文化である。しかし、よく見てほしい。これらの料理は、元々日本で生まれた「辛子明太子」料理なのだ。

 釜山から福岡にやってきた“명란젓(ミョンナンジョッ)”は、「辛子明太子」として生まれ変わり、日本で愛されて大きくなった。そして今、また愛されるために帰郷した。その「食文化の往来」を目撃できたことは、なんと幸せなことだろう。

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