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伝え繋がり深める40歳スタート!ペイ•フォワード記事Vol.66
【今年のテーマは何にする?】
今日は私の誕生日。おかげさまで40歳になりました。毎年誕生日に一年のテーマを決めることにしているのですが、去年は39歳、「サンキュー」ということで、何事にも感謝をしてありがとうを伝えよう、と決めました。
日頃からできるだけ物事を前向きに考えるようにしていますが、どうしてもイライラしたり怒ったりなんでこうなの!?と思うことも多々ありました。でもそのたびに、「今年は感謝の年にしたんだった。この出来事を感謝の気持ちで受け止めよう。」と落ち着いて捉えるようにしてきました。
去年感謝したことといえば
・いて当然だと思う旦那さんや二人の子どもたちがそばにいてくれること。
・家族が皆健康であること(息子が救急車で運ばれたり、私自身風邪が治るのに一ヶ月もかかったり)
・悩みに悩んだ末、教員として復職することを決めたこと
・私の取りたい資格のために、両親に協力してもらって子どもの世話をしてもらったこと
など、書き切れないほどのことがありました。とはいっても最初から感謝できていたわけではなくて、振り返ってみてこれは感謝しないとな、と思ったり、当たり前と思っていることに対して意識的に「ありがとう」と言ってみようと思ったりして「感謝」の意識を養っていったのでした。
と、この話をいつもお互いさまの街を一緒に広めている半田さんにしたら、「産休(さんきゅう)をとって39歳の歳がサンキューの一年になったね!子どもにものりぱぁにも一年だったね」と言われました。その通り〜
【不惑の年代 道理を学ぶ】
さて、今年の目標は何にしようかと考えました。40代に入ったので、論語の孔子の言葉を借りれば「不惑(ふわく)」という時代です。
子曰わく、吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順い、七十にして心の欲する所に従へども矩を踰えず。
孔先生がおっしゃった、私は15歳で国に仕えるためのより専門的な学問を志した。30歳で専門の学問を確立した。40歳でものの道理が分かって迷わなくなった。50歳にして天が自分に使命(生きる意味)を与え、何をするべきか理解するようになった。60歳で人の言葉を素直に聞きすらすらと理解できるようになり、70歳に至っては、心の思うがままに行動しても、決して道理を外すことがなくなった。
孔子の言葉に、40歳でものの道理が分かって迷わなくなるとあります。だからこの先の十年間は道理を学ぶ大切な年です。
道理って、なんだろう?改めて言われると説明できなかったので調べてみると、物事の当然のみちすじのことだそうです。でもどうやって道理を学んでいったらいいのでしょうか。
【人と繋がり学ぶのが好きな私の今年のテーマはこれに決めた!】
私は理論を学んだ後、実践に移すのが好きです。そうすることで、絵に描いた餅ではなくて、現実に活かせるからです。学びを実践し、そこからまた学んで、を繰り返すことのできる「学びの共同体」を創ることが私の特技でありライフワークです。
そこで、40歳の一年のテーマはこれにしました!
「伝え繋がり深める」
一人ではできないことも、皆とならできる!だから自分の学びや想いを伝えて、共鳴•共感してくれる人たちと繋がり、学びを深めあっていく。そんな想いを込めました。
そういえば、お互いの想いに共鳴し合う大好きな人たちと一緒にいると、自然と実現させたいことに向かって互いに知恵と力を出し合い、実現したいことに向かってぐんぐん進んでいるような氣がしてきます。まるで荒波の中を大きな方舟に乗って仲間たちと航海しているような、ワクワクと団結力と達成感とに満ちた感覚です。
そんな学びの共同体の中で切磋琢磨しあいながら世の中が幸せに満ちるようになる「道理」を体得する、そんな40代のスタートって素敵だと思いませんか?
【伝え繋がり深める、私流のやり方】
どうやって実践しようか、、、40歳になった私が考えた「伝え繋がり深める」目的と方法はこれに決定しました!
OTAGAISAMAを誰もが知っている国際語にして
世界中どこを歩いても
自分らしく誰かのためになることができ
自分らしく生きるために助けてもらえる
『困った時はお互いさま』の街を広めるために
noteを書き続ける!
そしてそれを本にする!
実際に、お互いさまの街を広めるために私の考えや体験を書き続けているnoteのおかげで、たくさんの方と繋がることができています。
今後この記事をご縁に繋がった方たちとより学びを深めていけたらと思うとワクワクします。
そしてこのnoteの蓄積が今後どうなっていくのか。もしかして本になって多くの方にお互いさまの街について知ってもらい、恩贈りを広げる実践者になってもらえるかも!そうしたら世界は間違いなく平和になる!!「妄想(もうそう)したら、もう、そうするしかない!」(お互いさまチケット発案者の故吉成洋拍さんの残した名言)の精神です。
【私の本好きのルーツを探ってみました】
そういえば、本を出したいな、と思ったのはいつの頃だったか。「色んな人に自分がやりたいことを言い続けていると誰かがその想いを叶えてくれるよ。」と私の大好きな方が言っていました。それもあって、確かに本を出したいなぁと口にはしていたかもしれません。いつからそんなこと言ってたんだっけ?自分でも記憶が曖昧なので、自分の本にまつわるストーリーをひっぱりだしてきました。
私は幼い頃からの本好き。それは幼い頃から母に絵本を読んでもらうのが好きだったから。
小学生になり母がそばにいてくれなくても妹と寝られるようになってからは、カセットテープの物語を聴きながら寝るのが幸せだったり。
小学生の頃、図書室で本を借りた冊数を数えて「多読賞」というものがもらえるのだけど、毎日借りていた一つ年下の子よりも一冊多くて、何で典子ちゃんは一冊多いの?と聞かれたこと、今でも覚えています。実はある日、私があまりに読書が好きであっという間に読み終わってしまうので週末のために2冊借りたいと言ったら司書の先生が特別に貸してくれたのでした。これは内緒。
たくさんの本を読んだから、自分でも話を作るのが好きで、作文では創造的な文を書いていたっけ。どうやったらかっこいい文章になるかな?と考えたりするのも好きだったな。
そういえば、妹たちとお風呂に入りながら、自分で作った歌詞にメロディもくっつけて、大声で歌うのも好きだったな。狭いお風呂場に反響させて自分の曲を歌う氣持ちよさといったら。
中学生、高校生になってからは、詩を書くが好きだった。大好きなアーティストがいて、その歌詞に影響されたかもしれないし、山形駅前で路上ライヴをや他校の友人としていたときに磨いた感性で書いたり。(その時歌っていた歌詞は相方が書いていたけれど。)お氣に入りのスケッチブックがあって、それに絵と詩を添えるのが私の息抜きだったなぁ。
働き始めてからはこの趣味はやらなくなっていたんだけれど、去年あたりにひょんなことから詩を書く機会がやってきました。魂が囁く言葉を表現したいな、と思って草原に寝転びながら感覚を研ぎ澄ませていたら言葉が降りてきたからメモをして。あとでゆっくり形にしていき完成。それを詩の朗読会で読ませていただいたら、朗読している最中に魂が自分の声に乗っかってきて、手まで動き出し、詩を音と動きで表現するような魔法のような時間に。あの瞬間は、想いが言葉と体と完全に溶け合ってひとつになっていた感覚でした。
こんな風に振り返ってみると、私は幼い頃から今まで、本、言葉、詩、歌、などを組み合わせた表現が好きだし得意だったのかな、と思います。
【英語じゃないよ、国語だよ。外国人じゃないよ、日本人だよ。】
それから、言葉の話でいうとよく聞かれるのが「英語の先生なの?」、そして面白いのが、「旦那さんはどこの国の人?」という質問。
私がマレーシアで青年海外協力隊としてボランティアをしていたからなのか外国人の友だちがたくさんいるからなのか、私が英語の先生で、外国人の旦那さんがいると思ってくれている方がいるんですね。
おしい!(?)全く違います。私は国語の先生だし、夫は日本人です。
でも、中学生の頃に学校に来てくれていたALT(英語を教えてくれる外国人)の先生に英語で話しかけてみたり、住所を聞いて英語でお手紙を書いてみたり、とにかくいろんな方とコミュニケーションを取るのが好きだったことは間違いないですね。
なぜ英語の先生ではないかというと、生徒たちはもしK-POPが好きなら自力でハングルを学んで書いたりしゃべったりできてしまうから、何語を教えるか、ということは私の役割ではないと思っていたからです。スペイン語でもマレー語でも、本人が目的や興味を持ったなら、ひとりでに学んでいつの間にか身につくはず。
言語を学ぶ動機は、言語の学びそのものを楽しむため、でも、多言語習得に挑戦!でも、環境が多文化社会だから自然と身についた、でも、なんでももいいと思うんです。
だから国語の教員としての私の役割は、①本人が何か好きなことを見つけるお手伝いをすること。②そしてそれを深めていきたくなった時のために、学校でない場所ででも、卒業したあとでも、学びを続けられるための姿勢ややり方を身に付けるサポートをすること。③さらには、学び合えるコミュニティを作ること。この3つだと思っています。
なぜ国語の先生かというもう一つの理由は、外国に行ったら「あなたの考えは?」と必ず聞かれるからです。日本には西暦と違う暦があるんでしょ?典子は何の宗教なの?などなど、私が知らないことや、考えたこともなかったことを色々質問されます。
日本のことや自分のことを英語や他言語で説明する前に、土台となる自分の考えを持っていないとね。そのためには母語で考えを深めないとね。ということで、国語の先生をしています。授業中、マレー語が飛び出すこともありますが。
【マレーシアでも書いていた】
こんな風に、言葉を使って自分を表現することを大切にしている私が「本を出したいな」と思ったのは、マレーシアにいる間に雑誌を編集した時からかもしれません。
マレーシアに派遣されているボランティアで、いろんなグループを立ち上げて学び合うのですが、そのうちの一つが雑誌編集委員会でした。アンギン(マレー語で風の意味)という雑誌を代々発行していて、メンバーで企画を出し、取材し、記事を書いて編集していました。これが楽しくて楽しくて。私が担当したのは、当時住んでいたサラワク州のいろんな民族の家にホームステイさせてもらって体験談をまとめた記事。その人の人生の一端を見させてもらって生き生きと表現するのが好き!と心から感じたのでした。
【結果的にマレーシアへの恩贈りに】
ペイ•フォワード、というテーマで書き続けているこのnote記事。実はその一つ目の記事には、なぜ私がペイ•フォワードをテーマにしてnoteを書くことにしたか、その胸の裡が書いてあります。
それは、「マレーシアで受けた恩を、次の誰かに贈りたいから」。帰国の日が迫ってきて「まだマレーシアにいたいよー!」とフィリピンにボランティア派遣されていた同期に電話をかけて大泣きするくらい大好きだったマレーシアと仲間たち。(それでも、マレーシアに行く前に結婚していた愛しい夫が待つ日本に帰りました。)これだけ素敵な経験をさせてもらったから、日本にいるみんなにもそのことを伝えたい!そう想ったのがきっかけでした。
さらに、帰国してから福島のことが大好きになり、宮城に引っ越すのもいやだ!と思うくらいになりました。マレーシアから帰国する時と同じパターンです。
こんなにこんなに大好き!と思える場所•人たちに出逢わせてくれたマレーシアと福島への恩贈りをしたい。私を大切にしてくれた皆へこのエネルギーが届いて、笑顔と平和が世界を包みますように。
そのために、お互いさまの街、恩贈りについてしたためているこのnoteが、いつか本という形になって皆さんの手元に届きますように!
こんな日がやってくるとは!
と思う日が人生にはたまーにやってきます。
でも、お互いさまの街を広げようとしてからは、その頻度が高くなっている氣がします。
だからこの願いもきっと叶うはず。
そういえば、半田さんと予祝したんです。
「のりぱぁ、本の出版📕おめでとう!」って。
未来の私、「きっとそのうちだから楽しみにしてて」って笑っているよね。うん、待ってる。その日のことを、心待ちにしてる。
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