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認知症にもいろいろあってな の日常  花を買うゆとり、そして今と未来。

昔どこかで読んだのだけど、マザーテレサは
懐に余裕があったら花を買いなさい
と言ったそうな。
もちろん、言葉はそのままじゃないですよ。
マザーテレサは「ふところによゆうがあったら」なんて言い方しないよね。たぶん。

余裕があったら人に分け与えなさい と続くとばかり思っていた私は
たいそうびっくりした。
「花、買っていいんだ…。」
そして球根を買った。

植物を育てるのが上手じゃなくて、手間のかからない球根を毎年植えていたのだけど、夫が病気になってから、かつかつの生活でしばらくそれもしていなかった。
スーパーでまず売り切り品をチェックするような生活で、
体も心も擦り切れていて、
それなのに花を買うってありなのか?
それでもマザーテレサの言葉に背中をおされて、
チューリップとヒヤシンスの球根を買った。
テレサのおかげで、必需品以外のものを買ってしまったという罪悪感を持たずにすんだ。

球根を植えるために土に穴をあけていく。
何も考えずにただ土を掘っている。
夫の病気も、借金も、パート先のあれこれも全部忘れて、
自分が球根になってしまって、自分で土に潜っていくように、
穴に球根を置いて土をかけていく。

それはもう、何か一つ取り出すと他のものまで一緒に飛び出してしまうぐらいギュウギュウに詰め込まれた気持ちにほんの少し隙間が出来て、
臨戦態勢だった心の中のあれやこれやが、ちょっと落ち着いたような感じだった。

一昨年の晩秋、「今年は久しぶりに球根植えたよ」と夫に言った。
夫と花を話題に話すのは本当に久しぶり。
その頃はもう、夫は答えることも出来なかったし、
私の言ったことがわかっているのかどうかもわからなかったけれど。
そして年が明けて1月の末、チューリップを待たずに夫はなくなってしまったけれど。

無心に球根を植えるとき、何も考えずに、たぶん私は祈っている。
「来年きれいな花が咲くように」ではなくて、もっと漠然としたこと。
この宇宙の中で、自分は一粒の星屑のような存在でしかないこと。
でも、その一粒一粒がなければ、天の川は存在しないこと。
一粒の星屑は消えても星屑は次々と生まれて天の川はずっとそこにあること。(これは方丈記ではないですか。)
その不思議と美しさと喜びと感謝を祈っている。






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