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「こまきちさん」

「は◯しま こまきちさ〜ん!」「は〜い!」
私が数ヶ月だけアルバイトしていた特別養護老人ホームに入居していたは◯しま こまきちさん(おそらく90代)は、自分の名前を呼ばれると、保育園での出席確認の園児のように元気よく手をあげて返事をしてくれる。

いつもよれよれのポロシャツのすそを黒のジャージのズボンの中にしっかりと入れて、少し腰は曲がっているものの、両手をピシッと両腿につけてとても姿勢良く立っている。難点は常にご飯を食べたことを忘れていることだ。

たった今昼食が終わって、食堂から帰るなり、ナースステーションにやってきて、「うんうんうん(口癖)、かんごふさ〜ん、お昼ご飯はまだですかの〜〜?」と聞く。(女性介護スタッフは全て看護師さんだと思っている)〜因みに声は、平泉成さんのようなハスキーボイスを想像してください〜 

「こまきちさん、いま、食べましたよ。次は夕食ですね。少し待ってくださいね。」と皆お決まりの返しをする。このやりとりを2、3回繰り返すと、皆やりとりに疲れて、「は◯しまこまきちさ〜ん!」「は〜い!」を間に挟んで誤魔化す。

こまきちさんは、とても穏やかな性格で、外見からもそれが滲み出ている。髪もチョロチョロと産毛を残すのみとなっていて、赤ちゃんみもある。ずいぶん前に作ったであろう少し歪んだメガネを鼻の上にちょこんとかけているのがまたかわいい。

常にご飯を食べたがる困ったところはあるが、憎めないのだ。うちの旦那もあんな風にボケるのではないか、と思ったりする。

ある日私は、ポータブルトイレの回収をしようと、大きな台車を押しながら廊下を歩いていた。そこにこまきちさんがやってきたて、例によって「うんうんうん、かんごふさ〜ん、お昼ご飯はまだですかの〜〜?」と話しかけてきた。そこで私は「こまきちさん、私の仕事を手伝ってもらえますか?」と聞いてみた。するとこまきちさんは、「はい」と素直に私についてきた。

いつものように台車に沢山のポータブルトイレの引き出しをピラミッドのように積み上げて、(便や尿が入っていて、倒れたりすると大変なことになる)トイレの処理場に押していく。

「押してみますか?」とこまきちさんに聞くと、「はい」と言うので、試しに押してもらった。するとこまきちさんは、なぜかとても楽しくなったようで、「ふんふんふ〜ん♫」と鼻歌を歌い出し、徐々に小走りになっていった。「あっ、待って!」私は慌てて追いかけたが、こまきちさんはスキップをするように台車をどんどん押していく。

普段はのそり、のそりと動物園で見るゾウのようにゆったりとした動きのこまきちさんが、こんなに軽やかなステップを踏めるなんて誰が想像できただろう?

顔はニコニコ笑顔が溢れ、軽やかな足取りで台車を押していく。私はこまきちさんの背景にお花畑と、頭に天使の輪を見たような気がした。

人間ってこんなに無垢になれるんだな〜、と感心しつつ、おかしくておかしくて仕方ないのと、積み上げた引き出しが倒れたら大変だ!という気持ちの板ばさみだった。

やっとこまきちさんを止めることに成功し、無事にポータブルトイレを掃除することができた。

もう20年以上前のことだから、こまきちさんはもうお空に帰ってしまったかなあ、と思う。けれど今でもふとこまきちさんの軽やかなステップと子どものような笑顔を思い出すことがある。

忘れられない光景ってありますよね。

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