喜怒哀楽
2021年7月19日にFacebookに投稿したものを掲載しています。
………………………………………………………………………………………
悲しむのにも体力が要る。
怒るにも体力が要る。
嬉しいと思う事に大した力は使わない。
楽しむ事に力は要っても、
それ以上の力を貰う事がある。
一昨日、
昨日、
今日と、
母を見送り、
家族と語らう事でそれを実感しました。
そして、
親戚の子に笑わせられなければ、
私は、
家族の中で一番泣いていたかもしれない。
母さん。
貴女は、
凄く素敵な贈り物を間接的とは言え、
残してくれました。
私も父も妹も、
それぞれのタイミングで泣いてしまいましたが、
涙ばかりではない感情を残してくれました。
親戚の子達も、
母が亡くなった事を、
身体的·直感的には理解している様です。
心身ともに理解するには、
もう少し時間はかかるでしょう。
そりゃあ、
共に過ごした時間が違うので、
至極、
自然な事の様に思います。
そう簡単に悲しまれたら、
私が過ごした時間が淡白だったんじゃないかと思ってしまう自分も居て。
でも、
親戚の存在に、
今の自分が精神的に支えられているのも、
厳然たる事実で。
こうして、
今、
思いを書き出す事で私は波立つ感情を少しずつ、
凪へと近付けています。
この後、
ケロッと立ち直ってしまうのか、
どうしようもなく悲しくなって体調を崩してしまうのかは、
今は、
分かりません。
ただ、
今、
私は、
いつも以上に喋りたくて仕方ありません。
もしかしたら、
母が、
私以上に、
母が生きていた事を知らせようとしてる気もするのです。
母は、
仲の良い親戚とおしゃべりするのが好きでした。
もしかしたら、
私の身体を使って喋ろうとしているかもしれないですね。
でもそれは、
母しか知る術は無いでしょうね。
兎にも角にも、
こうした母にまつわる思い出話を、
思い付く時に少しずつしていこうと思います。
それが一つの供養になると思いますから。