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第12話 僕が起業するまでの話(7) 銀行員時代の話

大学1年生のときに両親が破産宣告したにもかかわらず、体育会を続けながら、ゼミにも入って大学を卒業することができた。これも多くの人の助けのおかげである。本当に僕は運がいい。苦労して生き残ると、逆にそのあと強く生きられると思う。苦労は成長の糧だと本当に思う。

なので、三菱銀行に入っても、普通に過ごすつもりは毛頭なかった。空手で日本一を目指し自分を鍛え磨いてきたので、今度は仕事で猛烈に働いて自分を鍛え磨こうと思った。

銀行には、池上支店、虎ノ門支店、調査部、企画部と11年間勤めることになるが、どこの場所でも自分を追い込み、どこも超充実していた。

それぞれの場所では面白い話はたくさんあるが、そのほんの一部をご紹介したい。


【池上支店時代】
東京の大田区にある池上支店。日蓮宗の本門寺があり、蒲田などの町工場がある京浜工業地帯だ。最初は宗教法人担当だった。守秘義務があるので具体的にはお話できないが、お寺の裏側を見れたのは貴重な体験だ。いろいろなお坊様がおられた。僕の信心にも影響を与えている。今では考えられないが、一億円が入ったジュラルミンケースを、スーパーカブという原付バイクで運んだりもした。当時はバブル期だったので、地主様に不動産を担保にしてご融資し、投機用不動産や株をたくさん買っていただいた。このとき宅建の資格をとったり、税金はめちゃくちゃ勉強して税理士さんと渡り合うくらいになった。


【虎ノ門支店時代】
次は東京の港区にある虎ノ門支店。支店長が役員の大きな支店だ。最初は法人の新規取引を開拓する担当だった。いわゆる飛び込み営業。1日30件回る日もあった。この経験は今、営業で生かされ、訪問でビビることがまずない。当時は銀行の数が多く、どこの企業も銀行の数を減らしたいときだったので、新たに取引をとるのは至難の業だった。規制金利時代だったので、金融商品での差別化が難しかった。そこでやったのが商売斡旋。開拓したい企業に取引先を紹介し、成約すればお金を借りていただく。当時の僕は何屋だったか?と思うくらい取引先の勉強をして三菱グループや融資先を紹介しまくった。そしてその成果が認められ、1年半後に支店根幹先の上場企業の融資担当になる。そこで支店長と同行して、数々の経営者を拝見できたのは財産だ。「オーラがある」というのはこういう方々を言うのだと思った。


以上、支店経験を7年勤め、次は本部に役職者として異動した。部署は歴代の頭取や重役が通る部署として有名な調査部。経済や産業を調査して役員のブレインを務める場所だ。「なんで営業バリバリの僕がここに?」と思ったが、カンフル剤がほしくて、僕を引っ張って下さったそうだ。ただ、文章なんてまともに書いたことがない。最初の半年くらいは血尿がでるくらい苦労した。そこで一番勉強になったのは、「てにをは」より、物事を鳥瞰的にみること。これも今の経営のかじ取りに生かされていると思う。

【調査部時代】
調査部では、金融調査グループと言って「役員のために経営に資する情報を調査してあげること」というミッション以外は自由、という場所だった。僕はそのなかで「新潮流」という担当だった。いったいなんのことか、ですよね。営業バリバリの若造が「金融の新潮流」の調査?そこで考えたのが、グローバルで戦う企業の調査だった。当時は、調査といえばライバル銀行の住友銀行、三和銀行の動向といった他行調査。さらに欧米金融機関の調査をやっているとカッコいいくらいな感じだった。ただ当時は、シティバンクなど外資系金融機関もライバルになりつつあり、そこに勝つには彼らが研究している企業を調査しないと勝てないと考え、グローバル企業の調査をしていった。僕は英語ができないので、トヨタ、花王、リコー、日本IBM、帝国ホテル、JAL、etc...と日本語が通じるグローバル企業に調査にいき、そこでレポートをあげていった。銀行員なのにこんなことしてていいのかな?と思ったが、銀行以外の経営を見るのはめちゃくちゃ楽しかった。そこでCS(顧客満足)、ITなどが重要とぶち上げ、新部署の設置に寄与できた。そのころから、電子マネーやインタネットバンキングは研究していた。お客様満足度調査を銀行として初めて実施する企画にも参画した。


【企画部時代】
その次が企画部というところに、異動した。この部署は、東大4名、京大1名、早稲田1名、慶應(僕)1名。学歴だけでもすごいが、優秀な方の集団だった。そのうちの1人が、このたび頭取にご就任された半沢さん。彼とは同期で、おこがましいが、彼と一緒に仕事をして「彼にはかなわない」と思ったのも退職した理由のひとつだった。ただ、前述のように面白い発想で仕事をしていたので、彼も僕の仕事には一目おいてくれていたと思う。


【業務企画部】
最後は、業務企画部というところで、銀行全体の予算を配分するところだった。いわゆる官庁で言えば財務省の主計局のような場所で、30歳そこそこなのに、部長や支店長から予算をくださいと、頭を下げていただけるくらいのポストだった。


これだけお話すれば、とりあえず「エリート銀行員」って言っても許されるでしょうか?笑「とても鼻につく奴」って感じかもしれません。ただ、その主旨を説明させていただきたい。

それは、これだけのサラリーマン経験があれば、外に出ても絶対成功すると勘違いするのではないでしょうか?

実は、そのような方に是非、警鐘を鳴らしたいので、僭越ながら自分のことを「エリート銀行員」と称し、エリート会社員の方に見つけていただき、読んでいただければと思ったからです。

さて、次回はこれだけの経歴が歩めていたのに、なぜ転職するか?のお話に入らせていただきたい。「なぜまた銀行員をやめて、造園会社を起業されたんですか?」と聞かれる場合、ここから話すのが通常です(笑)。ずいぶん長い前段で失礼しました。







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