第14話 僕が起業するまでの話(9) 上場申請
幼い4歳と1歳の子供がいる32歳での、大銀行から10名のベンチャー企業への転職である。家計的には、奥さんが働いてくれていたから出来た話であった。そうであっても、普通は許してもらえる冒険ではなく、妻の度量の大きさには感謝しかない。
コーポラティブハウスでいう名前のベンチャー企業では、経理は社長の奥様と女性社員の2名でされていた。社長の奥様は僕が入社することを契機に、僕に経理を引継ぎ、ご退職されるお話になっていた。
日常の仕訳入力は女性社員がやってくれていたが、給与関係は奥様がされていたので、給与計算は一から僕が行った。今後ますます重要になってくる「働き方」を考えていく上で、労務関係に明るくなれたのは財産になった。
一方で、銀行関係は苦労されていた。コーポラティブハウスの仕組みでは、用地の買い取りのために億円単位の銀行借入が発生する。拡大していけば、当然その借入は増えていくわけなので、1つの銀行で賄えるわけがなく、新たな銀行を開拓していかなければならない。
また資本関係では、ベンチャーキャピタルの資本が1社だけ少額入っていた。大規模な増資をするには、証券会社や各ベンチャーキャピタルに、しっかりとした事業計画を作り説明していかなければならない。
そうした銀行、証券会社、ベンチャーキャピタルには、元三菱銀行員の入社は大きな信用材料になったと思う。
営業でも広告塔としてかなり役に立てたと思う。物件の説明会では僕が話をするパートが毎回あり、僕がコーポラティブハウスに満足して転職した話をしていた。購入を検討する方にとっては、実際の購入者が大銀行をやめて社員になるくらいだから、きっといいものであるに違いないと思っていただけるからだ。
採用面接にもすべて加わらせていただいた。入居者が大銀行を辞めて役員をやっているというのは、採用面でも寄与したと思う。実際、入社した数人の社員からは「河越さんがいるから家族が信用して転職を了解してくれた」と言われた。
肩書を利用して役員としてふんぞり返っていたわけでなく、実務も猛烈にこなした。会社までは自転車で通勤していたので、終電も関係なく、ほぼ休みなく深夜まで働いた。
大規模な増資計画も、上場申請準備も、僕が入社してから加速されたと思う。銀行の調査部で鳥瞰的にものごとをみて書く訓練をさせてもらったことが、事業計画書を作るときに役立った。上場準備での証券会社の担当の方との作業は楽しい思い出である。
マスコミにも取り上げられることが多くなり、業績はまさにうなぎのぼりだった。社員数もあっという間に30人、50人と増加し、上場も現実味が出てきた。
入社して2年後には、社員は100名近くになり、上場審査も無事通り、あとは上場日を待つだけというところまで行った。
ところが、情報統制でほころびが出た。「物事は伝えようによる」とはこのことかと思った。僕らでは帳尻が合わせられると思うことも、主幹事証券会社の担当には、危険信号に写ってしまうことがある。
具体的な内容は守秘義務があるので記載できないが、上場は延期になる。
実は、上場準備が整ったとき、急に時間に余裕ができたときがあった。猛烈に2年間働いているときは、自分の将来を考える余裕もなかったが、そのとき、上場後は僕はいったい何をするのだろうか?と考えていた。
僕は財務関係を中心とした取締役経営管理部長という役職だったが、この先も、財務担当役員をやっていくのか?
銀行員として中枢に上ったときと同様、将来のレールが見えてしまった。
面白そうでないレール。
僕は銀行を辞めるとき、自分で起業しようとは全く思っていなかったが、ここでも「人生一度切り」が登場してしまう。
何万人もいる大企業と、10人から100人の中小企業を経験したのだから、今度はゼロからをやってみたい。そう思ってしまった。
企業文化も、組織の三菱といわれるお堅い大企業と、ルールより楽しく勢いをもって仕事をするリクルート系出身者が多い中小企業の、いわば両極端を経験できたのだからこそ、その両方のいいところを取り入れた、面白い会社が作れるのではないかと思った。
父の破産宣告も見てきたので、僕こそ起業して成功してやる!という思いも強くあった。
妻に至っては、こうなることを最初から予想していたように、銀行を辞めるとき以上にすんなりと同意してくれた。やりたいようにやりなさい!という感じだった。
ただ、ナンバー2が辞めることは波及も大きい。なので、上場企業で経理部長をやっておられた方を採用し、半年間は引継期間を設け、金融機関をはじめとした各お取引先への影響を最小限に抑えた。「飛ぶ鳥あとを濁さず」をやったつもりだ。
結果として上場延期と重なったが、もし上場していても辞めていたと思う。
年は35歳。
いよいよ起業である。