「クリーンな言葉のワークショップ」からのフィードバックをシェア&補足
2021.5.3に開催した「クリーンな言葉のワークショップ」では、アンケートを用意していたので、たくさんのフィードバックをいただき、嬉しい&参考になる&反省するをぐるぐる回しています。
いくつかの感想をシェアさせていただくのと同時に、補足したい点をQ&A形式で整理したいと思います。
補足したい点
質問1. どうやったらクリーンな言葉を対人セッションで実践できるの?
これについては、3人の方から同じような感想をいただきました。
講座の最後の質問者は施術者で、もう2人はタロットの鑑定師です。
どう仕事現場でクリーンな言葉を実践できるのか、を展開できるかがわからなかった。
質問をまとめる時に相手の言語を汚さない、と意識しつつも、でははて、ここでなんと言えば良いのか、今どのワードを拾えば良いのか、と詰まってしまうため言葉の使い方を知りたいと思いました。
1の回答. 会話技術として学ぼうとするより、自己のあり方と観察力が大切。
クリーン・ランゲージはカウンセリングやセラピーのテクニックとしてもあるのですが、今回お伝えしたかったのは「聞いている言葉・話している言葉の自己観察」です。自分の言葉も人の言葉も、会話の意味内容から少し離れて、もっときめ細やかなエネルギーの流れや息づかい、姿勢、そして会話で起きた反応に観察の目が向くと、それだけでガラリと場が変わります。
変わることに気づけないとしたら、意味内容にとらわれ過ぎています。
わたしたちは通常、文化や時代の価値観という暗黙の前提(アンコンシャス・バイアスともいう)の上で会話・行動しています。眼鏡をかけていても、レンズが気にならないのは、脳が視覚情報からレンズを「見えないもの」に処理してくれているから。
VAK(視覚・聴覚・身体感覚)に注意を払うのは、見ている対象をよく見るのではなく、見ているものが自分にどう映っているかに注意を払うこと。それによって、わたしたちは暗黙の前提の外に立つことができます。
前提には、文化や時代の価値観だけではなく、無意識に自分や他者が価値づけしているものも入ってきます。
会話術として学んでしまうと、前提の外に立つことが実は難しくなります。理由は「自己の手放し」が起こらないから。クリーンにすることで、より高次の観点や思考を受け取り、または相手の無意識領域に接し、触媒として働くことができます。
質問2. 頭、胸、お腹をスキャンして、「フィルターを光で〜」のマントラの流れですが、ちょっと私のなかでうまく繋がりませんでした。
頭、胸、お腹でスキャンして、手がキャッチしたところは、言葉になっていないけど何かフィルターが在るってことで良かったのでしょうか。だから、マントラ、という流れなのかな?です。
2の回答. セルフケアと対人ケアで、やり方が異なります。
これは、資料6. 頭、胸、お腹をスキャンして、エネルギーの質を感じるワークの内容です。講座の中でも、体の中に感じるのか、手のひらで感じるのか、という違いにご質問があったので、補足します。
セルフケアと対人ケア、この二つの違いを、講座の中では説明しきれなかったかも。ごめんね。
まず、手のひらでスキャニングすると、体に対して脳の感覚受容が高まります。自分で自分の体をやるときには、体の中に何かそこで手が止まるような違和感を感じたら、そこにエネルギーのチャージがあります。今回はそれを、マントラで中和するという方法をご紹介しました。
人の体では、自分の感覚をそこまで相手に沈潜しようとすると、相手の体が嫌がります。また、施術者の中にはダイレクトに相手の身体感覚を感じとれる方がたくさんいますが(わたしもそうです)、少なくともわたしは共鳴し過ぎて気分が悪くなる、同じ症状が出るので、エネルギーの情報のみを手のひらで感知するようにします。
「手のひらの感覚に集中してください」と言ったのは、そういう意味です。
感覚の本質は、世界を体験する力そのものですが、物質世界での感覚の伝達は電気信号でしかありません。つまり情報です。対人ケアでは特に、エネルギーの情報のみを手のひらで感知するようにします。そのほうが相手も楽。
質問3. スクリーンてそもそもなんなん!?
スクリーンとかフィルターとかの言葉がキーワードだと感じましたが、言葉というよりは
視覚?うまく言えませんが心の窓?に感じられ、
そこから、言語に結びつけるのが良く理解出来ませんでした。
言葉を発する前提の、脳内のことなのかな、と思っています?
スクリーンの中とか観客とか、そういうのが、自分の中でもっとピンとくるといいのだけれどなぁ。
3の回答. スクリーンとは、あなたが「これが自分と自分の世界」と信じている全て、です。
「現実って思い込んでるのは違うんだよ」っていう情報はスピリチュアル系も自己啓発系も同じようなこと言っているし、わたしとしては、その入り口のご案内係をやめて、違う世界の探検をもっとしたいわけです。
でも、探検の仕方によっては妄想(いわゆるスピ系)になるか、ありがちな成功メソッドになるかで、わたしは創造世界を探検するのに心踊るので、そのリアリティを広げたいのです。
だから、入り口の説明は、仕組みの説明は超大事だからするけど、とっとと通り過ぎたい、または入口を卒業した人が増えて欲しいと思っています。
スクリーンてなんなん、言葉ってなんなん?もっとピンとくるといい。
こういう疑問や希望はきっと、全部プロセスとして実現化するでしょう。エゴは「ピンとくる」ことを全力で回避したがるでしょうが、今回は回避魔術の中和を施しているので、今後のみなさんのふるまいが楽しみです。
言葉の創造原理も、それが真実のなんちゃらではないです。だって観察できるのですから。ただし、スクリーンの中には見えにくく、スクリーンを成立させる仕組みように働いています。映写機の仕組みで説明することが多いですが、実質的には、その仕組みのパーツひとつひとつが、広大で個性的な大宇宙の輝きのように感じられます。
質問4. 難しくてついていけない、理解が追いつかない、情報量が多すぎる
4の回答. これは二つに分けて答えます。本質と、構成について。まずは本質的なこと。
わたしたちが感じる世界には、言語も非言語もありますが、その裏側にはもっとも抽象度の高い概念言語があります。例えば、愛、平和、争い、知性、といった、それ自体は具体的に何なのかを指し示すことができないようなものです。指し示そうとすると、具体的な出来事や感触や体験や記憶になる。
エネルギーの抽象度を上げていくと、エネルギーの量を決めるのは流れの方向と圧力になります。エネルギーの働き(現象)を記述するのは広がりと収縮になります。
意味言語ではない、創造原理としての言語を抽象化していくと、母音と子音になります。
こういう抽象度を語ると、難しいと言われますが、意識としては高次になり、具体的な情報をそこに内包しているので、もちろん情報量は増えます。もし情報量がなければ、それは名詞化したスカスカの概念になります。
情報量をともないながら抽象度を上げていく、または抽象度の高いところから具体的な内容を見ていく。
わたしが講座の中で実際にやっていることは、このチャンクアップとチャンクダウンの繰り返しなので、大変に疲れます。ヒーヒーと疲れてください!登山と似たようなものです。山登ってまた降りることに、意味や理解を問うと、しんどくなります。ヒーヒー疲れてふと感じる心地よい風は、登山にも吹きますし、内部世界にも吹きます。登山は一回一回が具体的で、内部世界は、抽象的でさまざまなな場面に応用できます。
以上が本質的なことですが、構成と演出については、その限りではありません。これはわたしの反省点です。いくらでも工夫の余地があり、そのクリエイティビティを高めたところに、今後の学び塾(名づけてヨミ人たちの自由技芸塾)が存在できる、と感じました。
言葉と体のための学校については、いろんなコメントをいただきました。
この学校は、大人もだけど子どもも必要だと思う。
既存の学校教育よりも必要。
応援してます!今の教育より必要。
興味あるし、参加したいです!
興味はあります!が、何かを教えられないと参加できないのかな?と思ったりしています。
教え合うことについて、興味があります。応援してます。
マニアックだけど、オープンな場になるといいですね。
のりちゃんの集大成的学校楽しみです!
学校になったら学ぶ仲間とのコミュニケーションがあるといいですね。
学びたい科目としては、惑星と体の結びつきが圧倒的に多かったので、嬉しくてムフムフしてます。化学もやろうや、な(笑)。
惑星と体は、精神的にも肉体的にも深く結びついていますが、わたしはいま、食と睡眠に関して、生理学的惑星と体がどう結びついているのかを探求しているので、この分野はみなさんのお役に立てることも多いかなと思っています。
質問5. のりちゃんだからできるんでしょ。
のりさんが当たり前に感じたりできてしまうことと、わたしの乖離が大きく(それはそうなんだけれど)、ときに遠い目になります。
分業的にいうと、こういうワークにかけているリソースがわたしは相当多いので、それはそうだろうと思います。もともとできていたこともあるし、思い出してできるようになったこともあるし、訓練してできるようになったこともたくさんあります。理論的裏付けは、ぜんぶ後から学んだことです。
後から学んだことで大切にしていることは、「これは元から知っている」という感覚があるかどうか、「わたしにとって都合良い」という理由が混じっていないか、です。
「自分にできたことは人にもできる」「人にできたことは自分にもできる」は、成功体験ベースや、成功因子のモデリングではなく、「できるという臨場感」が伝わるかどうか、だと思っています。この臨場感をつねに流し続けているし、人からもよいものを受け取りたいを思っています。
だから、以下のご感想は嬉しかったです。地味な驚きという臨場感。
今回教えてもらったことは、のりちゃんのセッションの中で、のりちゃんが実際にやっていることですね。
それだけで変わるんだよ、と言われても、それはのりちゃんだから、できることなんだろうなと思っていましたが、自分でもできるようになるんですね。
それが、地味に驚きでした。
嬉しかったメッセージ
わたしも人間なので、嬉しかったメッセージがあります。それをシェア。
のりちゃんのワークは普段使っていない回路を使うので、正直途中は「?」ということが多いです。そして、どこがどう繋がっていくのかが見えないのですが、最後になるといつも全部が立体になって感じます。
例えは微妙ですが、上質なミステリー映画を見たような感じです。
だから、一回じゃわからんのです。(それで良いと思います!)
上質なミステリーって、見返すと、伏線、視線の動かし方だったり、最初では気づかなかったことがたくさんあります。追っかけているだけだった時とは違う色だったり、立ち現れ方をして、めっちゃ感動するのですが、のりちゃんのWSはいつもそんな感じだと思っています。
いつも録画を見返して、あぁ、ここでこのことを言っていたのはこういうことなのね、とか気づいたり、ここでこれがこう生きてくるんだ!と感じています。
そして、受けているときは「よぉわからん…」と思っていても、その緻密さにおおおお、といつも思っています。
あと、ワークショップのイメージを絵にしてくださった方もいて、この記事のトップイメージにしてあります。改めて全体を掲載します。
最後に、たった今受け取ったアンケートから。
高齢者相手の福祉業務で相談支援の仕事をしてる方です。
相談内容は、ヘルパーに家事をやってほしいとか、何をしてくれるの?など、表面的な希望から始まるそうです。
でも、話を伺うと実は望んでいることはもっと根元の部分で違うところなのかと感じることが多いそうです。
いわば、クリーンランゲージの専門家ですね。表面より、深いところに焦点を当てて提案することが多いそうで、それでも、最終的には、どんな選択をしても、その方が選ぶことだとして対応するとのことです。
生の声、参考になります。
高齢者に限らず、
相談者の方って、嘘多いよねって
というか、自分もそうです!
これが辛いっていうけど、本当は、違う
でも、なんか、こんなに困ってる自分像を作って演じてしまってる
みたいな感覚なんです!
出来ない、大変とか言うけど、
本当は、一部分出来ないことを、他にも出来てることあるのに、出来ない~なんて表現したり
でも、それ、無意識に言ってたりもしますし、
だから、本来の自分がどうなりたいのか、看護とか福祉では、ニーズとか言いますけど
そんな部分に、焦点を当てるというか、
そういうことを伝えてみてます
のりちゃんも、70代位だと変わらないような話でしたね。
でも、なるべく、私の押し付けではなく、その人が、その人の魂がなにを望んでるのかに話をしたいと
この仕事やっております。
(のりちゃん補足:70代でも変わります。ただし自我が剥がれにくいお年頃かも)
でも、どうするかは、そのかた次第なので、
選択した人のものです!
個人として、喜んだり残念がりますが、それは、おしつけですものね。
でも、喜んだり出来るから、この仕事、忙しくて大変だけど、続けているのかなぁ
とも、思ってます。
なので、この講座に興味をもちました。
最終的にはその人の選択。押しつけない眼差しの中に何があるのか(無関心か、役立つリソースか、見守る愛か、etc)は、見る側の選択。
わたしも、「変わりたい・治りたい」という要望をダイレクトに受け取る立場にいますが、眼差しの持ち方については、すべてのセッションの中に新たな学びがあります。
ご参加くださったLIVE・録画合わせて30名のみなさま、アンケーををお読みくださった方、そして記事を読んでくださった方、心から感謝申し上げます。ありがとうございました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?