腸日記#06 「わたしは誰か」に、自在であること。
今日の記事の内容に合わせて、フリー画像を見つけてくる。何の楽譜を弾いているんだろうと目を凝らしてみると。
Concerto in Do minore。音符の並びからするに、マルチェッロのオーボエ協奏曲らしい。オーボエの独奏と弦楽が、追いかけっこしている。
https://www.youtube.com/watch?v=L12QaKHfM1o
日替わりワード
あなたはあるがままで価値があります。
完全でなくても、認められなくても、愛されなくても
安定の『まいにち腸日記』。お腹壊しているときにこんなん言われても……。って思っちゃうけど、根っこはやっぱりここ。
あるがままの価値が破壊されていると、脳は修正されたアイデンティティで生きるしかなくなり、エネルギー効率と免疫の混乱した腸はヘタっていく。
一日一腸活
朝に5分間トイレに入るって!!!便秘の人って大変だなあ。
物質的な腸活がつまんなくなってきたから、今日の日替わりワード「あるがままの価値」を深めてみたい。
オンライン講座 「血液の旅 実践編」
毎週月曜の夜、いろんなところから20人くらいが集まって学び合っている「血液の旅 実践編」。明日は、まさに「あるがままの価値」にアプローチする回だ。
テーマはこれ。
「わたしは誰か」に、自在であること。
「あるがままの価値」にアプローチして、体験をシェアするため、こんな資料を作った。
「わたしは誰か」に、自在であること。
「外界」から色や音、匂いや味を取り込み、「内界」からは感情やホルモン状態を受け取り、取り込み、処理され、刺激情報は知覚される。
…と、わたしたちが解釈しているだけで、「外界」「内界」も概念でしかない。
宇宙の実体としてのアストラル体は、感覚を起こす力、感情を起こす力、思考を起こす力と、その受容体だ。
感覚世界とは、月が照らし返したことで意識に生じる幻影でしかない。
エネルギーを変えれば、幻影も変わる。
エネルギーを変えるには、どうすればいいだろうか。
幻影の奥に、宇宙の実体を見出すには、どうすればいいだろうか。
自我とは?
赤ちゃんは、生まれた時から「体」や「心」を持っているわけではない。
第1ハウスから第3ハウスにかけて、体と心を体験し、学習していく。
第4ハウスで顕在意識と潜在意識が形成される。
人間には、情報を統合する高度な力がある。
統合には記憶力が必要で、体験の素朴な積み重ね(長老の知恵)から、法則を抽象化して演繹する驚異の機能を獲得してきた。
現在は、記憶装置を外部化し、テクノロジー化し、集合知とし、人間をはるかに凌駕する演算機能と、自己学習によってディープラーニングできる人工知能を育て上げた。
人工知能はすでに、人間の脆弱な五感に刺激を与え、人間の脳に仮想現実を作り出すことも可能だ。物質レベルにまで降りてきたアストラル体は電気信号でしかないため、彼らコンピュータとも相性が良い。
人工知能にも、まだできないことがある。
受精卵から自らを生長させ、衰微させること。
生まれ、死ぬ力。食われる力。
朝起きて「これがわたし」と思う力。
眠った時、意識がなくなる力。
生命体の巧妙な自己組織化能は、遺伝子レベルでどんどん研究されているから、アミノ酸からDNA、人工生命知能へと発現させることは、おそらくできていくのだろう。
けれども、朝起きて「これがわたし」と思う力と、眠った時「これがわたし」の意識がなくなる力は、そう簡単ではない。
「わたし」とは、外部からは決して与えられないものだから。
自己認識、自己実現の究極は、Self Realizationと言われ、「真我」に目覚めることとされる。
この世に生まれ、可能性を実現しようとする自己実現(Self Actualization)のプロセスに入ると、その過程で、自分が誰か、人が誰か、何をして行くのかを深く認識していく。
I LOVE YOUを届けたかったら、自己と出会い、他者と出会い、関係性をどう作っていくかを知っていくってことだ。
そうでないと、ただのさかりのついた猫であり、その恋はすぐに冷める。
そんなふうに人生を歩んで、獲得した自分、獲得した相手、獲得した仕事、獲得した家庭。肩書き、収入、業績。思い出。人間関係。
それらすべて、何か・何者か。
真の自己とは、そのどれでもないことにある日ふと気づく。囚われていた意識がどこかへ抜けて、無限に広がったように感じる。
知覚を得るチャネルが次元ごと変わるような、億万年の時間が一瞬で光のように流れるような体験。
それが真我の自己実現(Self Realization)の一つの現れだ。
結局のところ、自己実現(Self Actualization)の可能性を実現していってもいいし、しなくてもいい。
わたしとは、それか・これかと、探せば探すほど逃げていくものだから。
マズローの指針では、ワクワクする喜びに向かい、それを人と分かち合おうとすれば、おのずと実現していくものとされる。
それもまた、道の一つでしかない。
人工知能が自ら意識に目覚めるまでは、誰も外から彼に「わたし」であることを教え込むことはできない。
同じで、誰もあなたに「わたし」であることを教え込むことはできない。
外から吹き込めるのは、「おまえは誰だ」ということだ。
人間は、体験する四つの体を持っている。
それぞれ、相対的なIN / 相対的なOUTがある。
▷自我
朝の目覚め、10歳ごろの目覚め / 眠り、失神、死
▷感覚・感情・思考体
引力(引き合う力)、栄養、吸収、共感、快の感情 /
斥力(反発する力)、毒、排泄、反感、不快の感情
▷生命体
生長(浮力が生じる)/ 衰微(結晶化する)
▷肉体
吸気(酸化プロセス)/ 呼気(還元プロセス)
あるがままの価値は、どこにある?
上記四つの体験する体のうち、「自我」が目に見える形になったものは、血液だ。血液には「わたし」であることの情報が流れる。
血液に書き込まれる境界には、以下の三つがある。
第1の境界:内界と外界
観察者と観察対象がある。第一の観察者は「自我」で、観察された表象はアストラル体の活動(感覚・感情・思考)。
第2の境界:肉体と環境
上皮(皮膚や内臓の粘膜)を境界とした個体の生命活動
第3の境界:細胞と細胞環境
細胞膜を境界とした、細胞の栄養活動
端的に言えば、
「わたし」であることの情報は、4 自我、3 感覚・感情・思考体、2 生命体、1 肉体に浸透し、細胞の隅々にまで行き渡っている
ということだ。この世界観は、現代の科学医療の中にはまだない。
細胞の隅々にある「わたし」の情報とは、交響曲の指揮者のようなもの。奏でられる音の、どこにも指揮者はいない。けれど、指揮者の名は最も大きくクレジットされる。
他でもない、あなたの名前だ。
指揮者である「わたし」の解釈や振る舞いによって、その時々の状況によって、音楽作品はナマモノのように変わる。
細胞もまた、「わたし」の息づかい一つで刻々と変わる。
細胞が参照するDNA/RNA情報も。細胞が分泌する物質も。細胞間同士のシグナルも。
「わたし」のもとに統合される肉体(呼吸)、生命体(生長衰微のエネルギー)、アストラル体(引力と斥力、快不快)の響きを美しく変えたいと思ったら、「心」にとどまっていては無理だ。そこは、快不快に翻弄される場。
「わたし」の外、自我の外へ出る。
そこはどんな世界だろう。生まれる前の世界、10歳までの世界。眠りの世界、死の世界。
通常の大人の昼間の意識では、たどり着け得ぬ世界。
自我は、本能的に「自我の外へ出る」という行為に恐怖を覚える。
恐怖に対し、エンドルフィンという快楽物質を出す。
夢中になること、性行為、圧倒的集中状態、食事、眠り、死の間際。
エンドルフィン、ドーパミン、ノルアドレナリン、セロトニン、オキシトシンといった神経伝達物質は、状況に応じて恐怖や痛みを和らげ、自我の外へ「意識」を連れ出す。
自我を超えたところ。
そこは「わたしは誰か」に自在である世界。
この自在さを、日常の中で感じたい。
それには、どうすればいいだろうか。
これが、6月7日「血液の旅 実践編」の、ワークのお題である。
夢を追いかける30代男性のデモセッションを皮切りに、意識を広げ、ふだんはフタをしたり、感じないようにしたり、マイナスに価値づけして遠ざけているものに、ある特別なフォーカスを与えていく。
その特別なフォーカスを意識化することで、自我が拡大していく。
「あるがままの価値」は、しょげている人の肩に手をかけ、精一杯のあたたかな眼差しで、
あなたはあるがままで価値があります。
完全でなくても、認められなくても、愛されなくても
とほざくようなものではない。
こんなん自己満足で言われたら、すっげーキモいわ。
それだったらまだ、価値がないって言われて、価値あるリソースを教えてもらったほうが超マシ。条件が合えばうまくいくだろう。
わたしたちの体を固めさせ、足をすくませ、本来の価値から遠ざけようとするものの正体とは。
そして、その正体から自由になり、「わたしは誰か」に、無条件で自在である日常時間を増やすには。
それにはやはり、グループで情報空間を具体的に想定して、その中でワークを体験し、自らでリアリティをつかんでいくのが、いい方法なんじゃないかなと思う。
うまくいったら報告するよ。
食事内容
前日の夕食:エビグラン、オリーブと人参の乗っかったサラダ
昼食:豆腐、プチトマト、ブロッコリ、うどん、もやし、豚肉