力を入れずして天地を動かしたいので、一人でもご飯炊くさ
一人だと、ご飯を作るのか、作らないのか。
金曜日の雷雨。
「すぐにはバイクで出かけられそうにもなかったから、とりあえずご飯を炊いてお昼ご飯にした」と言ったら、
「えらいね、わたしが一人だったら、たぶんご飯炊かない」と言葉が返ってきた。
こういう会話は、よくある。
自由気ままな生活と、家族のご飯作りに追われている生活と、という切り口の会話。
今朝は、自分の朝食のために、バゲットを切り、レタスとキュウリとハムを挟み、コーヒーを淹れてポットに詰め、公園に出かけた。
うめえ。
いい香りのコーヒーと、うめえそいつをモシャモシャしながら、公園でノートを広げ、サイコロを振って脚本修行をし、こないだから受け始めた詩のセッションのお題を開いて、詩を二本書いた。
ちなみにその前の日は、コーヒーだけ持って、吉祥寺のベーカリーまで歩き、パンを買い、公園の同じテーブルで、本を読みながら朝食にした。
午後にセッションをし、夜にセッションをし、それ以外は、なんの約束もなく、何をしていてもいい。
土曜日は、空き時間に『古今和歌集』の「仮名序」を読んで、調べ物して、筋トレに行った。
『古今和歌集』仮名序には、こんなことが書いてある。
日本には、「呼吸法」という、とってつけたようなものは発達しなかったそうで、和歌が育った。
どう吸うか、どう吐くかではなく、どこで息を打つのかが、歌になる。
それができると、力も入れずして天地のバーベルを動かすことができる。
『古今和歌集』仮名序の解説は、ほんとうに下らないことが書いてあり、
この箇所は、「力をも入れずして天地(の神々)を動かす、感動させる」のように補われてしまう。
そんな意味ではないことは、続きを読めばわかる。
下照姫(したてるひめ)は、天若日子(あめのわかひこ)の妻。
天若日子さんは、天孫降臨に先立って派遣された神で、大国主神家のマスオ氏として八年も暮らした挙句、天から「どしたん?」と言いにきたキジを射殺してしまい、自分も殺されるハメになった神様だ。
八年間、何をしていたのか。今に伝わるトホホなエピソードとは違うものを、紀貫之は見ていたに違いない。
紀貫之は、歌の呼吸は、天地の始まりからあり、天での下照姫にその歌法が始まり、地での歌法(三十一文字)は、スサノオから起こる、という。
下照姫の歌には、それが「ひなぶり」であるというメタ情報が『古事記』には付されていて、こういうメタ情報が、発声学、ひいては胎生学にとって、大変に重要になる。
「ひなぶり」は、そういう名の旋法であり、歌のスケールを指している。とわたしは思う。響きからいって、おそらく三焦、ホルモン系。
今の音楽は、作詞と作曲とがはっきり分かれているけれど、音階の打ち方と、言葉の響きをどう関連づけるのか。
天若日子と下照姫、それから姫のお兄さん、アヂシキタカヒコネの神は、そういう作業を天地のつなぎにやっていたのではなかろうか。
下照姫の歌に息を打って、息づかせていくと、体や国土がどういうふうに成り立ってきたのか、どういう響きで調整されてきたのかが、どんどんリアルに迫ってくる。
わたしたちの体は、環境から成り立っている。
同時に、環境を作る力もある。
一人だと、ご飯を作るのか、作らないのか。
一人で生きていると、あっという間に、人のリアリティに巻き込まれそうになる。
作ろうが、買おうが、外食しようが、不食になろうが、なんでもいいけど。
そのリアリティが借り物である限りは、つまらない。
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