真夜中に太陽を見る力と、オイリュトミー
2023.1.22(日)、春節。
エドガー・アラン・ポー『大鴉』発表会。お越しいただいた皆様、メッセージをくださった皆様、ありがとうございました。
3人のパフォーマンスでしたが、当日は5人の仲間にお手伝いいただき、友人や先輩方にもお立ち会いいただき、無事に終えることができました。先生の朗唱で、20分の大作にソロで挑むことは、得がたい体験となりました。
1/28(土)は、今度は清水隆陽路くんとマノユ明子さんの『大鴉』があり、わたしは音楽作品で参加します。
わたしにとって「からだ」は、つねにそこにありながら遠い存在で、物心ついた小学生のころから、「この、内臓のグニャグニャした、飯を食うもの、血や小便や大便を出す醜悪なものとは、なるべく心と切り離して生きよう」と思っていました。
そんなふうに思うようになったきっかけは、うわべだけは「そこにいる」と扱われているのに、実体や感情は何も映っていないように、家族に扱われていると感じていたことかなあ。
いない存在、いないほうがいい存在、いてはいけない存在。
そのようにとらえられた体は、そのように育つもの。
残念ながら無様に、機能不全になっていくのだけれど、良くも悪くも、本当に自分の姿を自分のこととして感じることができるようになったのは、内的な目を育てはじめた、ついここ数年のことです。
「内的な目」は、これまで「心」と呼んでいたものとは違うものでした。
通常は、人の目や人の感情、病院の検査、人の評価、社会的な評価、そういったものを、自分のからだに当てはめて生きています。
わたしが稽古しているオイリュトミーという「舞踊」は、人から評価されるから続けていけるとか、褒められるから努力できるとか、それだけでは立ち行きません。
反対に、自己満足や自己表現で舞台に立とうとしても、生ぐさくて見向きもされません。
習慣的に体を使うこととも、また区別されます。
繰り返し繰り返し、言葉と音楽を体に入れつつ、常にそれを生き生きと空間に刻み続ける。
内的な目を育てることなしに、そんな作業に何年も向かうことは、できないのです。
いつまで続けるのか、続けて何になるのか。自分にそんな価値があるのか。その苦しい問いかけを、シューレの三年生の頃から、足かけ五年も続けていました。
なんとか続けてこれているのは、人の舞台を見ることに、力をもらえているから。
自分が成長すればもっと楽しく続けられると思いきや、一番の力は、舞台を見る目を育てることでした。
人の舞台を見る目こそが、自分の体を内的に見る目を、育ててくれます。
こう書くと当たり前のようだけど、自分的には意外な発見で、実感を持ってこう言えるのは、ほんとにごく最近のこと。
どれだけ人から、「立ち方はこう、歩き方はこう」と教えられても、「姿勢が大事、呼吸が大事」と頭で理解しても、本気で股関節に向かう、足のアーチに向かうのは、内的な目が育っていくのと同時にしかなり得ないのだと、ようやく腑に落ちています。
若いうちから始めてたら、無意識的にそういうの会得してるんだろうけどね。
そうした若さを羨みもせず、自分をずっと導いてくれているのは、「真夜中に太陽を見よ」という冬至の気分を、体に響かせるようになってから。
この言葉にどれだけの力があるのか、わたしは甲状腺を失ってみなければわかりませんでした。甲状腺疾患をお持ちの方は、失う前にぜひ、この言葉を体に響かせてください。
ポーの『大鴉』という詩もまた、闇に溺れていくようで、闇に向かう力を与えてくれる不思議な作品です。
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