さりげなく置いてあるものほど、洗練されている
時計の設計図は、時計の中には入っていない。
時計職人も、もちろん時計の中には入っていない。
時計作りの技術はぜんぶ時計の中に込められ、それ自体は消え去っている。
という年間行動を一つ決めたんですけどね。
夢とか愛とかさー、ストレートなメッセージで伝えるの、自分でやるのは嫌だなー。
と思ってた。
けど、夢の具現化の技術って、やっぱり価値があると思うのよね。
絵に描いた餅が、食える餅になるわけだから。
で、
年間行動のステートメントはこうです。
ウエサク満月(2021/5/26)からの一年間、
#夢を生きる365日の言葉
のハッシュタグをつけて、
わたしにアンサーしてくれた人、投稿してくれた人、絵や画像を提供してくれた人、そしてそれを続けようとしてくれた人の、
それぞれの「夢を生きる」が具体的な形になる。
正直、ふつうに生きて美味しくご飯食べられればいいじゃん、て思うの。
うちの親とか、そういう人。
なのに、
そんなふうには心から思えないとか、
夢なんていつも叶わないとか、
いつもしょんぼりして見える人が、なんで「夢」に幸せを感じられないか、わたし、なんとなく知ってるんだ。
それは「人に認められる」が叶ってないから。
というより、
「人に認められることに価値をおきすぎている」から。
夢なんて、一番ふわふわして、つかもうとすると逃げてくようなものなのに。
心をわかってもらおうとして、わかってもらえず傷ついたから、
いまだに心をわかってもらおうとしたがる。
(親がわからなかったのに、人がわかるわけないじゃん!)
夢を生きる技術、夢の具現化には、技術がある。
その技術をマインドに届く言葉にして提供するのが、#夢を生きる365日の言葉 の行動規範。
行動規範て、そうだなー。放送コードとか、ドレスコードみたいなもの。
具体的な形になって、
取り組めるものになって、
毎日行動するものになって、
習慣になって、
気がついたら、夢がその人自身になる。
そのハッシュタグは何個あって、何人が参加して、何個「いいね」がついて。
そういう数値を目標にしてもいい。
叶いやすくなるから。
でもね、それがほんとの目標じゃない。
人に認められるって、そのくらい形になってないとわからないってことを体験するだけにすぎない。
一人ひとりは、いるだけでかけがえのない、なんら存在証明を必要としていない輝きを持つ。
でも、輝きを閉ざしていたら、光らんやんか。
なんとなく置いといたって、光らん。
さりげなく置いてあるものほど、洗練されているじゃん?
時計の設計図も、時計職人も、時計作りの技術もすべて、時計の中に込められ、消え去っている。
時計だけが、見えるものとして残っている。
わたしたちの体も、同じような神的叡智として、形作られている。
すごく洗練されてる設計なんだけど、やっぱり磨かんと光らん。
だから体のことも今、磨いている。
言葉も、磨く。
夢の込められた人生ってやつを、もっと洗練できるよう、技術を磨きながら手渡したいって思うわけなんだよね。
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