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アピチャッポン短編解説:『Trailer for CinDi』

アピチャッポンの短編作品については、『アピチャッポン・ウィーラセタクン:光と記憶のアーティスト』(フィルムアート社、2016年)でほぼわたしが解説したのですが、彼の幾つかの作品は残念ながら掲載できておりません。そこで、本ブログで短編作品の解説を補填できればと思い、ここに少しずつ掲載しようと考えました。今回は『Trailer for CinDi』(2012)についてです。近年であれば、京都にある出町座のアピチャッポン短編集パートAで上映されています。

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『Trailer for CinDi』は、Cinema Digital Seoul 2011という映画祭の宣伝広告として撮影された、アピチャッポンの短編映像作品である。このわずか1分ほどの作品には、スクリーンや映画館、そして投影像にたいするアピチャッポンの思考が凝縮されていると筆者は考えている。

 この短編の基調となるのは、画面いっぱいに広がる真っ赤な遮蔽幕である。装置が幕をキリキリと音を立てて巻き上げていく。すると、その幕が断続的に開閉をはじめ、不穏な音楽がそこに付け加えられていく。じつのところ遮蔽幕は、幾重にも多重露光によって劇場のスクリーン上で重なりあっていることがわかる。そのため、幕の不規則な開閉が多層的かつ連続的に生じることで、スクリーンの全体は一向に明らかとならない。純白のスクリーンが垣間見えたと思えば、半透明の赤い幕がそのうえに被さっていく。最後に、映画祭のトレーラーであることが画面中央の映画祭ロゴで示される。そのロゴが提示されるやいなや、すかさず森の環境音がざわめきはじめる。

 さて、本作品で描かれる「場」は、ある特定の要素がいくつも欠落している。この作品が映画館の表象であるならば、観客席やプロジェクターの光、あるいは映画館ならではの暗闇を欠いているのである。終盤に流れる森の環境音が映画館であることをさらに不安定にさせることも、そうした「場」の揺らぎを感じさせる。アピチャッポン作品において「場」が確立したものとして現前しないことについては、『ブンミおじさんの森』の森の表象の不安定性と非-場所性を指摘する拙論(http://ecrito.fever.jp/20170804192042)で論じたとおりである。本作品もまた、その傾向のひとつと考えてよいだろう。

 だとすれば、アピチャッポンは映画館という場所を、どのように認識しているのか。これは彼の諸作品を見るわれわれにとって、きわめて重要な議論だと筆者は考える。本稿ではそれへの結論を急がず、『Trailer for CinDi』における彼の狙いを、映画館という「場」とともに考えてみよう。アピチャッポンは、デジタルシネマだけが上映される映画祭の宣伝広告として本作品をつくった。この事実からは、皮肉しか表れてこない。つまり、「映画が始まらない」のである。映画館の幕がただ不穏に揺動し続け、スクリーンを展開する兆しはみえない。そしてイメージを投影する動きもみえない。端的にいえば、デジタルシネマでは「映画」が始まらない。デジタルシネマは、映画とは根本的に異なる何かなのである…そんな言葉も連ねてみたくなる。しかし、アピチャッポンといえば、デジタルシネマ黎明期からその可能性を探ってきた数少ない映像作家であったはずだ。たとえば『Windows』(Windows,1999)においては、デジタルキャメラの差延性を用いて光との戯れを記録し、『ハタナカ・マサトと撮るノキア』(Nokia Short ,2003)においては、携帯電話に付属した解像度の粗い動画撮影機能で男性の裸体と水との接触をエロティックに捉えた。したがって、アナログ/デジタルの二項対立を彼が引きずり続けているとは思えないし、それによって映画なるものを恣意的に分節しようとする狙いもそこにはないはずだ。

それにしても、アピチャッポン作品を楽しんできた観客にとっては、彼が映画館という「場」にたいする特別な念を抱いていると思わずにはいられない。とはいえ、本作品において彼は「映画館へのノスタルジーを鑑賞者に喚起し、昨今の映画を取り巻く風潮」に異議を唱えているわけではないだろう。ましてや、「映画館の不在=映画の不在」的な皮肉めいたメッセージを殊更に強調してはいないはずだ。

 ではいったいなにか。筆者もまた想定の域を出ないが、次のように考えてみたい。つまり、本作品は「シネマの延命措置」が描出されているのではないか。投影像が投げかけられない白い矩形(スクリーン)の存在意義は、「シネマがかつてあった」と「シネマがこれからあり続ける」という混在する葛藤のなかで折り合いがつけられない状態をただ提示するばかりである。シネマの「いま」が葛藤している。その葛藤を筆者は、定義を曖昧にし続けることで延命してきたシネマそのものの状態として透かしみてしまうのだ(などといった恥ずかしいことを書かせる本作品はほんとうに罪深い)。幕が揺動し続けることで永遠に映像の投影が始まらない映画館(しかし画面上では簡素な合成映像が投げかけられている)、そして観客(席)の不在。すべてが宙吊りの時空間に、森のざわめきだけが響く。「いま」も「場」も揺らぐ本作品は、始まりと終わりが必然的にともなうシネマという装置とは似ても似つかないものである。始まりがあれば終わりがある。その当然の規定から逃れるように、幕は際限なく揺れ動く。そうした宙吊りの時空間のなかで結晶させた本作品の映画館という「場」は、シネマを延命させる新しい風景として提示されているのかもしれない。


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