邸宅の囁きーー『旧グッゲンハイム邸裏長屋』についての覚書
神戸、塩屋。そこには100年以上前に建てられた邸宅、「旧グッゲンハイム邸」がある。昨年は黒沢清監督『スパイの妻』(2020)の主要シーンを撮影したロケ地として話題となった。ふだんは結婚式やライヴイベントの会場としてよく知られ、さまざまなカルチャーが混淆する稀有な場所だ。そんな文化発信の極地には、「裏長屋」と呼ばれるシェアハウスがある。映画『旧グッゲンハイム邸裏長屋』は、その裏長屋へ実際に流れ着き、実際に住まう人々の暮らしを捉えた作品だ。だれかが裏長屋を去り、裏長屋に新しく入居し、恋をし、フィールドワークを理由に偉い先生が裏長屋を訪ね、みんなでご飯を食べ、みんなで演奏し、誕生日を祝う。本作の物語とはこのようなものである。それらが「ドキュメンタリーかのように」捉えられるわけだ。人間どうしの距離感、丁寧かつ適度に雑多な生活感、和やかな場の共有…いままで当たり前だった何かが、まるで民族誌映画の貴重なシーンであるかのように見えてしまうのは不思議である。マスクなきコミュニケーションは、今となっては「映画」でしか成立しなくなってしまった。日常が手からこぼれ落ちてゆく現在、本作が作られた意義ははるかに大きい。
『旧グッゲンハイム邸裏長屋』は、裏長屋に住む人々を捉えながら、塩屋のさまざまな「亡霊」を捉えているように思われる。さまざまな可能性を具える本作は、実際に裏長屋で暮らす人たちによる美味しいご飯の「レシピ本」を刊行しているものの、残念ながら批評やレビューが掲載されたパンフレットは発行していない。そのためか、まとまった作品評は現時点ではなさそうだ(前田実香監督と森本アリによるすぐれたインタビューはこちら)。しかしこのままでは「塩屋のシェアハウスで暮らす住人たちのあったかほのぼのライフ」という印象に本作の魅力が終始してしまうのではないか、と他人事ながら危惧している。そうしたありがちな評価が確立する前に、私がもっとややこしくしてみよう。それがこの文章のささやかな狙いである。
(『旧グッゲンハイム邸裏長屋』の予告編はこちら)
1. 邸宅の囁き
「じぶんの前世はなんだったか」については誰もがいちどは考えるが、「じぶんは誰の前世なのか」についてまで考えをめぐらせることはないだろう。後者の言葉は、アピチャッポン・ウィーラセタクンの映画を観た細馬宏通が、ふとラジオで呟いたフレーズだ。じぶんの魂が引き継がれてゆくこと、じぶんの記憶が継承されること、それらはわたしたちの魂が住処を変えるということであり、同時にそれはじぶんを他者と「シェアする」ということにほかならない。いずれにせよ、住処を変えて生きていくのは人間や動物だけではない。亡霊もだ。
もちろん『旧グッゲンハイム邸裏長屋』はホラーとは異なる。にもかかわらず、冒頭から「亡霊」の話でもちきりだ。裏長屋から去る一人の女性が次のように言う。だれか見知らぬ人が裏長屋に立っていた、みんなはその気配を感じたことはないか、というふうに。なるほど、そう話す女性たちの背後には窓枠や隙間、画面の奥行きがなんとなく強調されているようで、画面に映る人間以外の眼差しのありかを予感させる。やはり亡霊はいるらしい。亡霊とはだれか、という話は本作の終盤で決着がつくのだが、そのことは作り手にとっての物語的な整合性の確保と本作のフィクショナルな要素の担保に過ぎない。亡霊がだれかという点は、本作の筋においては重要ではないのだ。
翻ってこのシーンでは、亡霊の存在を感じると話す女性の声が「二重化」されている。前田監督によれば、時間的に後に録ったテイク2の音声に先録りしたテイク1の音声を重ね合わせており、その音声の違和で鑑賞者の注意を向けようとした。この演出は結果として、「現在」の声に「過去」の声を重ね合わせた点が重要だ。いいかえれば、現在の時間に、過去の時間が突如混ざりこむ。この女性のセリフだけが時間の宙吊りとなり、鑑賞者の耳に取り憑く。亡霊の要素とはこのように、物語の時間的な連続性をせき止め、宙吊りの状態におき、時には無時間的な時空間さえ示してしまう。亡霊にかかわる場面はその後いくつか登場する。それらはすべて、明らかに時間が脱臼したようなシーンなのだ。
それは亡霊の存在を示唆した女性が裏長屋を出た直後に入居してきたガブリエルという外国人が、旧グッゲンハイム邸の2階で詩を朗読するシーンだ。明らかにほかのシーンとはトーンが異なるローキーの画面が採用され、いかにも「ホラー」なショットが連続する。無人のドアがゆっくりと開いたり、だれもいない邸宅の室内が捉えられたりする。取り憑かれたように詩を朗読するガブリエルのあり方、それは彼自身が主体的に詩を朗読しているのではなく、彼自身が邸宅の声を「囁く」媒介者となっているように思われる。ガブリエルは旧グッゲンハイム邸の2階から窓外を見つめる。それはかつて塩屋にあった重要文化財「旧ジョネス邸」があった方向のようにも見える。淡い光のなかで囁く彼はほんとうに「彼」か、それとも邸宅の亡霊が憑依したのか…そうした思索をめぐらすことさえ本作は許容してくれる。
2.建築は見えづらい
塩屋は、さまざまな洋館の前世と来世が留まり渦巻く場所なのかもしれない。19世紀後半から多くの外国人によって邸宅が建てられた塩屋は、いまや旧グッゲンハイム邸などわずかな洋館を残すのみとなった。直近だと、2013年まで塩屋の海沿いに建っていた「旧ジョネス邸」もまた、土地の利権にかかわる争いの末にマンションへと建て替えられてしまった。その邸宅の調度品は、塩屋のさまざまな場所に移し替えられ、邸宅の建材は分解されて町中のほかの建物の資材となった(森本アリ『旧グッゲンハイム邸物語〜未来に生きる建築と、小さな町の豊かな暮らし〜』、ぴあ、2017年、24-44頁)。邸宅が無き後も、その身体の一部は同じ土地で生き続けているのである。亡霊でさえも住処を変えると述べたが、塩屋においては邸宅でさえ住処を変える。邸宅が住処を変えたり装いを新たにしてひっそりと次の「生」を謳歌したりする、塩屋とはそのような町なのである。
いずれにせよ『旧グッゲンハイム邸裏長屋』はホラーではないが、「建築映画」であると言ってよい。その点で本作が興味深いのは、裏長屋の全容がよくわからない点だ。どこまでが裏長屋で、どのドアや入り口がどの廊下や部屋と繋がるのかが判然としない。ましてや、裏長屋と旧グッゲンハイム邸の位置関係すら危うい。つまり、本編の終盤まで、裏長屋と邸宅の位置関係がショットの連鎖では適切に把握できないようになっている(ちなみに筆者は邸宅の近辺に住んでいるため、実際の位置関係は把握しているのだが)。まるで彼女たちの指差す方向が異なるかのように、である。
しかし、映画とはそもそも、建築の「全体」なるものを捉えるのは不可能なメディアだ。建築家の鈴木了二が言うように、建築とは「ほとんど見えないもの」であり、「ごく一部の記憶によって全体の印象が決定づけられて」しまう。「建物の一部分が全体を決定する、それが建築本来の経験のあり方」と述べる(鈴木了二『建築映画 マテリアル・サスペンス』、LIXIL出版、2013年、49-77頁)。わたしたちは旧グッゲンハイム邸のごく一部を捉えたショットを見ることで、その邸宅の「総体」をじつに豊かに味わうことができる。そして映画は、こうした人間の力能を信じることによって成立するのである。それでも本作が旧グッゲンハイム邸で撮影した映画にほかならないのは、その邸宅の勘所を押さえているからだ。そのような映画と建築をめぐる関係の根幹に気づかせてくれる。
3.建築の編集/編集の建築
ワンショットで建築の全体が捉えられることもあれば、複数のショットで建築の総体が詳らかになることもある。『旧グッゲンハイム邸裏長屋』はどちらかといえば後者の作品であり、旧グッゲンハイム邸や裏長屋の総体は「編集」によって構築されたものだ。それを建築の「編集」と言ってみる。
一方で、本作の「ドキュメンタリーっぽさ」は、ただ「自然な」演技や台詞を発する登場人物と、実際に住んでいるようすを再現して捉えているから生じているのではない。「ドキュメンタリーっぽさ=自然さ」は、どの映画も編集によって作り出されている。それゆえ、「ドキュメンタリーっぽさ」とはきわめてフィクショナルで人工的な産物なのであり、「自然さ」からはかけ離れているものだ。こうして編集によってカチカチと重ねて生み出される要素がある。これを編集の建築と言ってみる。
だからこそわたしは、本作を「ドキュメンタリー/フィクション」といった二項対立で考えることを真っ先に避けてみたわけだ。ではこの「自然さ」はどのように本作で作られているか…という点など含めて、本作はほかにもさまざまな観点から解析できそうだ。たとえば、裏長屋に住む男性の登場人物がどんどんコミュニティの端/外に落ち着き、しまいにはフレームの端/外へと消失していく点などがそれである。これらは、また2度目の鑑賞後に整理したいと思う。