“Learning About Time: An Interview With Apichatpong Weerasethakul" 日本語訳 アピチャッポン・ウィーラセタクン × キム・ジフン対談
試訳です。参考あるいは引用する際はかならず原典にあたってください。
訳出ミス等もあるはずなので、ご指摘いただけましたら誠に光栄です。
メディア論者であるキム・ジフン(Ji-Hoon Kim)は、このインタビューの他に“Between Auditorium and Gallery: Perception In Apichatpong Weerasethakul’s Films And Installations,” (Global Art Cinema: New Theories and Histories, eds., Rosalind Galt, Karl Schoonover, New York: Oxford University Press, 2010, pp.125-141.)
など、きわめて秀逸なアピチャッポン論を展開する研究者のひとりです。
それだけでなく、デジタル映像やポスト・メディウム論などにも精通しているこのキム・ジフン。わたしがいちばん注目している論者でもあります。
このインタビューはアピチャッポンの諸作品の制作過程を知るうえでもたいへん興味深いものです。『ブンミおじさんの森』(Uncle Boonme Who Can Recall Past Lives, 2010)や『世紀の光』(Sang Sattawat, 2006)といった長編映画作品、そして《プリミティブ(Primitive)》などのヴィデオ・インスタレーション作品について、分野横断的に話題が展開していきます。
本インタビューを参照した論考は数多くありますが、わたしも参考にしました。
下記インタビューは以下の文献から訳出。
Ji-hoon Kim, “Learning about time: An interview with Apichatpong Weerasethakul,” Film Quarterly, vol. 64, No.4, University of California Press, 2011, pp. 48-52.
キム・ジフン(以下:ジフン):ギャラリーや劇場公開用の作品を制作するとき、あなたは異なるアーティストでいることを意識しているのでしょうか。あるいは、そこで異なる観客を意識しているのでしょうか。
アピチャッポン・ウィーラセタクン(以下:アピチャッポン):ヴィデオ・アートは、観客の情動的な反応を直接引き出すことがしばしばあります。〔映画と比べれば〕即時的なものです。ヴィデオ・アートはその一方で、時間と空間の感覚的経験を観客に与えることも可能ですね。他方で映画作品は、諸感情のゆるやかな蓄積がもっとあるわけです。ですから、ヴィデオ・インスタレーションを作ることと映画を制作することは、異なる動物のようなものです。ですが、それらは互いに補い合うのです。わたしが映画を制作するときには、多少なりともインスタレーションの実践から恩恵を受けていいるといえます。つまり、いわゆる一般的な映画の刻印ではなく、インスタレーションのような刻印を残すのです。なので、わたしはこうしたふたつのメディア、ふたつの状況の試みのあいだに静止しているといえます。そして特別なものを作り上げるためにいかにしてふたつを結びつけるか、こうした点について考えています。
ジフン: 両方の形式は、作品の構想段階という観点においては互いに異なっている一方で、相互に影響を与えあってもいるということですね。
アピチャッポン: そういうことです。インスタレーション作品の計画書を書いたことがあります。その計画書は展覧会を運営する組織や、美術館へと提出したわけですね。そしてそれは、コンセプトを組織や美術館に説明するときにとても助けになることがありますし、わたしが住んだり訪れたりした場所の記憶を含めた自身の記憶を説明するときにも同様です。このように計画書を書くことは、わたしの作品制作のプロセスには欠かせないものなのです。それは異なるコラボレーターからの予算案などを含めてですが、映画業界の用語とは違ったもので書かれています。ですが、わたしにとってはまた、長編映画の作品のための脚本を書くことは、計画書を書く作業にも似ていると感じています。たとえば『ブンミおじさんの森(Uncle Boonmee Who Can Recall His Past Lives)』の脚本は、インスタレーション作品の計画書のように、プロジェクトとの関連性、俳優、待遇といった制作チームの情報、あらすじ、わたしの発言などを含んでいます。しかしここでの違いは、脚本がインスタレーション作品の計画書よりも十分に組織化されているということなのです。またいくつかのケースにおいては、わたしの執筆過程はそっくりです。ノートを持ち、たくさんの思索を書き込み、それからメモが意味をなすように心がけています。そうした作業は長い時間がかかることもあります。『ブンミおじさんの森』〔の制作〕において、私は沈思黙考(meditation)にふけたのであり、それは実に幸せに満ちた時間でした。
ジフン: 『ブンミおじさんの森』を観たあと、35㎜フィルムだけが伝えることのできる視覚的な美に〔本作品が〕依拠していると思いました。それはまたタイのジャングルの風景を表現した『トロピカル・マラディ』(Tropical Malady, 2004)や、『世紀の光』(Syndromes and a Century, 2006)の前半部分もですが。しかし、たとえば『ワールドリー・ディザイアーズ』(Worldly Desires, 2004)など多くの短篇映画作品においてはデジタル・ヴィデオを用いていましたね。あなたが扱っているメディウムについてですが、フィルムとヴィデオのあいだにはどのような違いがあると考えているのでしょうか。
アピチャッポン:『世紀の光』ではSony Viper cameraを試しました。そしてそれが35mmには到底敵わないと気づいたときに処分したのです。わたしはふたつのメディウムのあいだの差異にいつも注意を払ってきました。それらに物理的な差異があるのは明らかです。それらのイメージに差異があることを、奥行き、色、ルックですぐに判断することができます。わたしは35mmキャメラを操作することにたいして、心地よさを感じるのです。つまり、フィルムが持つ粒子感や、何かに焦点を合わせるときのこの奥行きのことです。デジタルはこれらとまだ釣り合いません。フィルムは、モノ自体の物質性と結びついて豊かな視覚世界を表現するメディウムです。フィルムはまた、わたしが作品のなかでどのように記憶を扱うかに関係しています。何かを思い出すとき、それはいつもこうした映画の特徴を持っているようなのです。ヴィデオを見るとき、なおさらそれがメディウムであるという事実に意識的になるでしょう。少なくともわたしにとってはですが。でもフィルムを使うと、そうしたことがわたしには起きない。なぜなら肉眼で見ているように自然だからです。フィルムを用いると――化学的ではありますが――、自然界における変化(昼から夜、明かりから暗闇への変化、あるいはソフト・フォーカスからディープ・フォーカスへのイマジュリーの移動)という視覚表現の広域性をわたしたちは獲得できます。こうした意味で、フィルムはヴィデオよりも、いっそう自然界の人間感覚と絡み合った、もっと「有機的な(organic)」メディウムであると言えるでしょう。他方で、ヴィデオはフィルムよりも、即時的で無意識的に人物や風景を捉えやすいことが挙げられるでしょう。〔ヴィデオは〕いわば異なるスタイルを試みていくパレットのようなものなのです。長編映画作品の準備構想のスケッチや、インスタレーション作品を制作していくわけですから。
ジフン: 『ブンミおじさんの森』と「プリミティブ」(Primitive, 2009)シリーズの関係性はどこにあるのでしょうか。
アピチャッポン: この長編映画作品とインスタレーションは同じ核を共有しているのです。具体的にいえば、ナブア(Nabua)という場所とその記憶ですね。言い換えれば、両作品は別々に存在しているけれども、その場所が姿を消そうとしている事態へと捧げられた作品なのです。両作品は同じ土地やナブア村の背景を共有しているわけですね。とはいえ、それらは同じ主観と客観の異なるアングル、異なる視点のような関係です。長編映画作品とインスタレーション作品は、ナブア村の記憶をそれぞれ扱う方法という点で異なっているわけです。たとえば「プリミティブ」シリーズにおいて、わたしはナブア村の政治的記憶へもっと直接的にアプローチしました。ですが『ブンミおじさんの森』では、自身の個人的な記憶を織り交ぜながら、その村をもっと寓意的かつ隠喩的に扱ったのです。そして形式の側面からいえば、インスタレーションはノンリニアで非時系列的です。それぞれの作用から成るインスタレーションはそれ自身のテーマ、スタイル、上映時間を持っており、鑑賞者は前もって決められた指示に従うことなく別のヴィデオとかかわることができます。長編映画作品にあるような正規の約束事など、そこには存在しないのです。
ジフン: わたしにとって、あなたのインスタレーション作品と長編映画作品のあいだにある関連性はまた、パリの制作会社やアンナ・サンダース・フィルム(Anna Sanders Films)、そのほかの提携者との合作が根底にあるのではないかと思うのです。「プリミティブ」シリーズにおける若者たちとの共同制作、映画制作の手順を暴露すること(キャメラ、照明、スモークマシン)、歴史的場所としてのナブアにたいするあなたの探求、そして多様なメディア(書籍、絵画、写真)の使用というのはすべて、数多くの映画作品とヴィデオ・インスタレーション作品をプロデュースするアンナ・サンダース・フィルムで制作を行ってきたピエール・ユイグ(Pierre Huyghe)やドミニク・ゴンザレス・フォルステル(Dominique Gonzalez-Foerster)らを思い出します。こうした影響関係について、そしてアートと映画のあいだの交差がどのように関わっているかを教えていただけませんか。
アピチャッポン: アンナ・サンダース・フィルムと共同制作しているアーティストたちは、かなり好き勝手で不合理に映画作品に取り掛かったのです。「仕方がない」と感じましたね。映画について話しているとき、それはしばしば物語の論理についてのすべてともいえるのです。「あなたの映画は何について(・・・・)の作品ですか?」こうした類の質問は、アートワールドにおいて不適切でしょう。そうした質問はアーティストたちにたいして余計なものです。彼らが描いているものは、伝達されている諸感情や作品の背後にあるのですから。ドミニクやピエールのようなアーティストたちは、情報伝達の達人なのです。つまり、何についての作品かという説明なしで、ある特定の感情を観客に語るという意味でまさにそうです。これは私にとっても特別でした。
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キム・ジフン(以下ジフン): 若者たちとのコラボレーションを行った《プリミティヴ(Primitive)》の制作過程について教えていただけませんか。宇宙船を作るというアイデアがいかにして浮かんだのでしょうか。若者たちの故郷の歴史が忘れ去られ、あるいは抑圧されたことについて彼らが認識するようになったとあなたは思いますか?
アピチャッポン・ウィーラセタクン(以下アピチャッポン):苦難や蛮行をじかに経験した年上の世代の人々と作業に取り掛かることもできたのです。ですが、私は彼らと同様の生い立ちではなかったことを感じ取りました。人々の生活のしかたやメディアという観点においても、私は彼らと同じような考えを持ってはいません。対照的に、若者たちの着こなしや話しぶりを見ればとても安心しました。そうしたことから、私は若者たちと制作することを決めたのです。このプロジェクトより前に、若者たちが育った土地における虐殺、レイプ、その他の暴力の歴史について、彼らはすでに知っていました。しかし、本作品ではそうしたことについて直接的に議論したくなかった。私はその苦難を明るみに映し出したくはなかったということです。私たちが一種のゲームをプレーし、この土地が歴史を有していることを知っていく、こうして一緒に活動したようなことが重要だったのです。それで私は本当に十分だったと思っています。
若者たちが、私が在るべき場所の行き先を準備してくれたのです。私がその場所へ行ったとき、まさしくパフォーマンスのようなものでした。というのも、何をすべきかがわからないのですから。ただそこへ行き、彼らとともに夢を創造すべく作業するのです。夢のなかでは〔誰もが〕支配権を得られません。いわば、共同の夢製造といったようなものなのです。政治的な局面において、政治的混沌あるいは苦痛から逃れたいと欲する認識やその国民に属しているということを人々は感じていません。こうした状況において、SFの諸要素にたいする興味が私に回帰したのであり、そして私たちは宇宙船を作ることに決めたのです。その宇宙船という乗り物は、過去や未来へ私たちを誘うことができたのです…まるでシネマのようにね。シネマはその起源からして、別世界へのある種の移動手段だったのです。SF映画にたいする私の偏愛もまた、私自身のかつての作品から明らかでしょう。たとえば、インスタレーション作品《フェイス(Faith)》などですね。《プリミティヴ》における宇宙船は、記憶が変形され蘇る場所なのです(ブンミおじさんが生まれ変わりや変身を経験するのも同様に)。ですから、多くのレヴェルで夢、移動、そしてまぎれもない擁護というのは起こります。
ジフン:『トロピカル・マラディ』のジャングルに比べて、『ブンミおじさんの森』におけるジャングルの空間は異なるコンセプトを持っているのでしょうか? 『ブンミおじさんの森』におけるジャングルは、もっと人工的で舞台的に見えます。ジャングルはブンミの記憶の始原へ帰還するために許された特別な場所なのかもしれません。ですが、『トロピカル・マラディ』のジャングルはもっと原始的な環境であり、人間と動物を分かつ明確な境界が存在しませんね。
アピチャッポン:まさにその通りです。『トロピカル・マラディ』の小さなジャングルは、現実的で暗いです。しかし、『ブンミおじさんの森』のそれは、わざとらしいジャングルです。それはある種、映画的なジャングルですね。私たちが撮る方法は「アメリカの夜」であり、その色やジャングルのセッティングは実際のものではありません。ブンミおじさんの現実離れした旅立ちの前に、彼にとっての最終局面が用意されています。私は、古い映画作品のような、現実には存在しない風景のなかで俳優たちを動かしたかった。自身のジャングルの表現が、タイの映画作品かその他の映画作品から来たのかどうか、確信がありません。ですが、私が育ってきたころの古典的なカラー映画作品なのでしょうが、そこでの青色は月光の色を表すことに使われており、赤は日光の色を表していたのです。
ジフン:『ブンミおじさんの森』は比較的分かりやすい物語構造なのですが(ブンミが思い出す過去の生涯と結び付けられた複数の時間が含まれてはいますが)、それらはまた異なる映画制作のスタイルで表象されていますね。なぜあなたは映画のストーリーラインにこうしたアプローチを採用したのでしょうか。
アピチャッポン:映画の物語は、異なる記憶や想像の混合物です。私は、自身が育ってきた記憶と、映画と同じタイトルの(私が会った僧によって執筆された)本の物語を結び付けました。それとともに、私が聞いてきた亡霊たちや怪物たちについてのタイの諸伝説や諸神話、私が見てきた1970年代タイのテレビで放送されていたミステリーシリーズの物語、私が読んできたマンガもそれらと結び付いています。私はまた、たとえば〔リールの〕4巻目におけるナマズと姫の話のように、過去のタイ映画を自身の映画作品に呼び起こしたかったのです。私はタイのコスチューム・ドラマのスタイルを参照したのですが、それは全体的に私の想像力から現れるものです。
私は6リールそれぞれに異なるアプローチを採りました。最初のリールでは、たとえば私がしばしば使うロング・テイクを使った映画撮影の方法です。2つめのリールは、幽霊が夕食どきに現れるシーンですが、そこでは静的なキャメラで古典的な映画のショットです。そこにはタイのテレビドラマの要素もまた含まれています。全体的にこの映画作品は、タイの映画作品やソープ・オペラだけでなく、きわめて古典的なホラー映画などといった、私が育ったころのすべての映画への賛辞なのです。それはまさに、「そうさ、ひとつの映画スタイルを用いているんじゃなくて、6つの異なる映画スタイルを採用しているのさ」。
ジフン:『ブンミおじさんの森』と《プリミティヴ》は明確に違ったアプローチをしているにもかかわらず、数人の批評家がタイの政治と歴史という観点から『ブンミおじさんの森』と《プリミティヴ》を解釈していました。政治的文脈は《プリミティヴ》のほうがもっとはっきりとしていることは疑いようもないはずです。あなたはこれらの批評への返答をどのようにお考えでしょうか。映画作品において政治的であることをあなたはどのように定義づけるのか、あるいは政治的映画についてどのように考えるべきなのか、この点について教えていただけませんか。
アピチャッポン:私の作品における政治的な側面というのは、隠蔽されている何かなのです。とはいえ、ある特定の場所で歴史上起こった事態をあなたは次第に認識することになるのですが。私にとって、それは強烈なメッセージを送る方法なのです。もし私がある場所の歴史認識を高めたいだけだったなら、本を執筆していたでしょう。なぜならそれはもっと直接的な方法だからです。芸術活動を行うとき、生き残っている人々や歴史を両肩に担う人々にたいして重みを与えてしまうのです。こうした事態がすでに政治的であり、芸術家は避けられないのです。
ジフン:あなたの関心のもつ生まれ変わりreincarnationや、あなたの考える仏教や量子物理学について、数多くの批評が興味深く見ていますが、こうした関心についてどう思われますか。あなたは自己認識あるいは瞑想などを映画制作に必要としているのでしょうか。
アピチャッポン:映画作品は観客の自己認識を高めることができます。つまりそれは、暗闇のなかで座っている他の人々を認識することであり、幻影としてスクリーンに映る運動を見ることであり、これが動物的反応だと気づくことでもあるのです。しかし映画制作者としての私にとって、それは自己認識というよりも、むしろ時間を理解することについてだといえます。『ブンミおじさんの森』において、時間が私たちにどれほどの影響を与えているか、どれほど多くの感情を喚起するか、そして観客が映画的時間との特別な関わりをもつことをどれほど手助けするかについて私は理解することになったのです。ですから、私の関心というのは、主として私の認識についてではなく、そうした〔時間についての〕認識についてなのです。
仏教と量子物理学についてですが、私は『ブンミおじさんの森』やその他の作品を理解するために、必ずしも観客がそれらを学んでおかねばならないというような特殊な知識の体系だとは思っていません。仏教や量子物理学は、概ね生命や映画と関わっています。私は仏教を一連の信仰や宗教として認識してはいません。私にとって、それは生きる手段なのです。ですからシネマは、いかなる点においても、こうした意味で仏教的になりうる。それは「仏教映画Buddhist films」ということではなく、数多くの映画作品が仏教的な何かを含んでいるということなのです。
ジフン:あなたの諸作品は「幽霊譚ghost stories」と呼ばれることがありますが、それは亡霊の跋扈する神話や何か不気味なものとの超現実的な出会いをあなたの諸作品が扱っているというだけの理由ではありません。むしろ、あなたの諸作品において、フィルムそのものが亡霊のメディウムであり、かつ観客の前に存在しないものを刻印するためのメディウムであること、これらが明確に示されているからではないでしょうか。つまりあなたの諸作品は、シネマが古い形式の芸術であると次第に見なされつつあるという現在の状況が重要なのです。なぜなら、不可視で想像的なものに生命を与えるメディウムとしてのフィルムの力を呼び戻すことに、〔あなたの諸作品は〕捧げられているからです。この意味で、あなたの使う陳腐な特殊効果が、それでもやはり驚異、恐怖、そして怖れをうまく含んでいること、それが芸術としてのテクノロジーによって支配された産業映画にたいするあなたの返答だといえます。あなたの諸作品とは相反する、デジタル化の影響を受けた昨今のシネマの背景をあなたはどのように見ていますか。
アピチャッポン:フィルムはまだそれ自体で存在するものです。亡霊は姿を消すのではなく、それ自体何かに変化するものです。シネマもまた、それ自体で変化してゆくものなのです。このように、ある意味でシネマは亡霊だといえます。なぜならそれは、実際に幻想にふける必要のある何かだからです。シネマは、私たち自身のために、あるいは私たちの一部として、私たちが生み出す乗り物vehicleなのです。シネマは私たちの魂soulの延長のようなものであり、魂それ自体が〔シネマに〕現れるのです。新たなテクノロジーに関して言えば、その魂は移り変わっている状態で、当然ながら私はそれが良い方向か悪い方向かについて考えていません。まさにいま移り変わっている最中であり、私たちはシネマにどのような影響があるかについて注意を払う必要があります。私はシネマが死に絶えそうであることへの厳密な判断を下すことはしません。私は『ブンミおじさんの森』で、タイの古い映画への憧れを表現したかった。とはいえ、私の狙いは古い映画それ自体を蘇らせることではなく、それがかつて存在したことを観客に気付かせるよう誘うことにあったのです。
こうして他方では、昨今の技術的変化を受け入れることに私は寛容であり、そしてデジタルが映画cinemaの死を招くだろうという言説を信じません。問題は、監督のクリエイティヴな革新を果たすために、これらの諸変化をどのように私たちが扱うかということなのです。私たちはつぎのようなことを考えなければなりません。つまり、映画cinemaの制作や配給におけるこうしたとてつもない諸変化が、クリエイターが相互に影響するであろうことについてです。真の革新が打ち立てられるであろうことを、私は信じてやみません。
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